山歩き

亀井谷…広見山…半四郎山…表匹見峡
2010/2/21

亀井谷入口…亀井谷奥橋…広見山…七人小屋クビレ…半四郎山…都合越…ツゴウ谷…表匹見峡…亀井谷

■広見山(ヒロミヤマ)1186.7m:島根県美濃郡匹見町大字匹見字広見 (益田市) 
■半四郎山(ハンシロウヤマ)1126m:島根県美濃郡匹見町大字匹見字広見 (益田市)

亀井谷奥橋
ブナの爪痕
1035P
広見山 広見山北のピークから
春日山 広見山北のピークから
広見山
旧羅漢山 十方山 焼杉山 広見山から
半四郎山と向半四郎
七人小屋のクビレ
広見山
タチ石
向半四郎と安蔵寺山 左
ミズナラ林の広い平坦地
都合越
両側崖の尾根を岩が塞ぐ
ツゴウ谷の取水口
崖に作られた左岸の山道
表匹見峡
イブシ谷
前田中縄文遺跡付近
ダヤ前縄文遺跡付近
 
6:10 亀井谷入口 晴れ 気温−7度
 
ヤマハゼ

6:55 亀井谷奥橋
9:15 1035P
11:15 広見山
12:15 七人小屋クビレ
12:40 半四郎山
14:35 都合越
16:05 岩場
16:40 フチミ橋 
18:10 亀井谷入口


 カメイ谷入口付近を出発。カメイ谷の奥山が明るくなってきた。林道の雪はまばらであったが、奥へ入ると段々と深くなる。40分ほどで亀井谷奥橋。橋の手前の急な斜面に取り付く。新雪で、出ていた笹が雪の下に埋まる。岩倉山に日が入り始めた。1時間ほどで岩場の上の小尾根の端に出た。ヤマドリの足跡が続く。さらに30分ほどでアカマツ林の主尾根に出た。

 1035ピークへの細いブナの尾根を進む。ブナにくっきりとクマの爪痕が残っていた。1035ピークはブナ林であった。東側が若いヒノキの尾根を登る。広見山北のピークに出た。岩倉山から焼杉山への大展望が広がる。西に春日山が見え、広見山は目前である。

 薮尾根を下る。鞍部まで降りると薮を抜ける。広見山北面は20cmほどの新雪がある。ブナの尾根を登る。ブナ林の間から春日山が見える。緩やかな深い雪の尾根を進み広見山に出た。出発から5時間ほどであった。焼杉山の上に十方山が見え、半四郎山の先に冠山が見える。

タムシバ

 雪尾根を南へ下る。ノリウツギが花を残す。ノノハラ谷右谷の鞍部へ降り、尾根を東へ進みノノハラ谷左谷の鞍部へ出る。そこが七人小屋クビレと呼ぶ。途中で片方のカンジキが外れているのに気が付いた。引き返してみると深くはまったところの潅木の枝に引っ掛かっていた。カンジキが外れても足から抜けないようバンドを補強。

 急な雪の斜面をジグザグに登る。クビレから30分ほどで山頂に出た。恐羅漢山、十方山、冠山、安蔵寺山、春日山など360度の展望がある。焼杉山の西面に林道が中腹辺りまで上がっている。南東直下のタチ石まで降りてみた。ノノハラ谷左谷水源の南側の尾根に岩が立っているように見える。

ノリウツギ

 春日山を前方に見ながら半四郎山西尾根を下った。リョウブの林を抜けるとミズナラとアカマツ林となる。ブナとアカマツ林に変わる。広いミズナラの平坦地に出た。1時間半ほどで都合越に降りたが道跡は無かった。イノシシの足跡が尾根に続いている。都合越から1時間半ほどで両側崖の尾根を塞ぐ岩場にぶつかった。ツゴウ谷から上がる山道に下りてみたが、途中で消失、そこから急な斜面を谷へ降りた。

 谷には取水口のような小堰があり、右岸から左岸にあがる階段があった。左岸に道が通っていた。道は岩崖を削って作られたものであった。ほどなく表匹見峡に出た。中国電力の標柱に「津号谷渓流取水口(7号暗渠)」とあった。南側のシロウクラの谷には「新口谷(8号暗渠)」とある。フチミ橋を渡り1時間半で亀井谷入口に帰着。

サンインマイマイ



地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 匹見川沿いの「ダヤ前遺跡」(カメイ谷入口)「前田中遺跡」(ヒノ谷入口)については匹見町教育委員会の報告書に以下のように記されている。

 「縄文時代早期末に人々が住居していたものと想定される。…一方で縄文時代前期中葉以降の生活も存在していた可能性がある。この2期の隙間を埋める資料は今のところないことからみて、本遺跡は時期を異にする2期の複合遺跡であるということができよう…
 出土遺物…の僅少性(から)…個々の具体的な生活誌は浮かび上がってはこなかった」(『ダヤ前遺跡』)。

 「縄文時代後期初頭から縄文時代後期前葉期に至るものである…
 僅少な石器を中心にみてきたが、やはりこれらの生活具としての石器類は…住居址を中心とした周辺に出土している。しかし出土しているとはいえ,生活の重要な住居址があった場にしては余りにも僅少である。このことは該当住居の生活期間が短かったというであろうか」(『前田中遺跡』)。

 フケ上地点(カメイ谷入口付近)の発掘区は幅2m、長さ8mであるが、遺物、遺構は検出されなかった。半兵衛屋敷地点(フケ上の東)は同じく幅2m、長さ7mで、「遺構と想定されるものは…確認できたが、共伴の遺物が皆無であり、時期及び性格は判然としない」(『匹見町内遺跡詳細分布調査報告書Y』)。

 新槙原遺跡(道の駅付近)の第4,、5層から出土した無紋土器は上ノ原遺跡(匹見川・紙祖川合流点の東)とほぼ同時代かすこし時期のくだるものである。上ノ原の集団が新槙原に移動したのか、別個の集団であったのかわからないけれども、ともに谷間が交差する地点に立地していることは注目できる」(『上ノ原遺跡』)。

 ダヤ前遺跡、前田中遺跡とも出土物が僅少であり、前田中遺跡については「該当住居の生活期間が短かった」と結論付けている。『石ヶ坪遺跡』(紙祖川)では次のような指摘がある。

 「むしろ注意しておきたいのは石錘の多さである。これは山間部における小河川漁労が盛んに行われていたことを示すものである。現在の生業暦では、匹見川や紙祖川において漁労が行われるのは春から秋にかけてであり、縄文時代の人々もこれに準じたとすれば、その主な生業活動は冬以外の時期に行われたとみてもよいだろう。その場合、石ケ坪遺跡において当時の人々が通年的な定住生活を送っていたのかどうかという点が問題となる。これまで、石ケ坪遺跡からは多くの配石遺構が検出されたとされており、その点をもって当時の拠点的な集落とみる向きもあるが、季節的に限定されたいわゆる「ナツの集落」であった可能性も今後視野に入れながらさらに検討がなされるべきであろう(『石ヶ坪遺跡発掘調査概報W』島根大学法文学部考古学研究室)。


 周辺の地名から「生活期間の短い」理由が浮かび上がってくる。

●リョウシ谷(ダヤ前遺跡の北)
 riya-us-nay
 リヤ・ウシ・ナイ
 越年し・つけている・川

 riya-ushi の転訛。
 
●イヌボウ谷(前田中遺跡の北)
 inun-pon-pet 
 イヌン・ポン・ペッ 
 漁のため滞在する・小・川

 inun-po-us-pet 
 イヌン・ポ・ウシ・ペッ 
 小さい・漁のための仮小屋・ある・川

 inun-po, inun-po-u の転訛。

 出土物が「生活の重要な住居址があった場にしては余りにも僅少である」(前田中遺跡)のは何故であろうか。継続して住み続けた場所でなく、毎年「漁・猟期」に一定期間だけ滞在した所ではないだろうか。

 アイヌ語「リヤウシ」は冬に越年して漁・猟をすることを言う。アイヌ語地名では「越年川」「越年場」「越年村」などがある。「イヌン」も同じ意であり、「狩猟期用の仮小屋」などの意味もある。

 アイヌ語「イチャン・イヌン」は「鮭鱒産卵場・漁場」の意で、現在も12月には高津川までサケが遡上しているが、堰が無かった時代には匹見川にもサケが上っていたと言う。縄文期の冬、この辺りはサケの漁場であったのかもしれない。

 「ダヤ前」「前田中」遺跡に生活の根拠を残した縄文人は定住者ではなく、1年の内のある期間だけそこにやってきて猟・漁を行っていたと考えられる。周辺で簗を仕掛けて袋網でサケを取り、流木の桟橋を作って漁を行っていたと考えられる。

●ジャウジロウ谷 
 cha-us-or-pet 
 チャ・ウシ・オロ・ペッ 
 鮭・群れる・所の・川

 cha-ushi-ro-u の転訛。

 アイヌ語地名に「フレ・チャ・ウシ・ナイ」がある。「紅・鮭・多き・川」の意である。堰が出来る前には匹見川に鮭が遡上してきたと言う。この辺りまで鮭が遡っていたのであれば、「cha」は鮭のことであろう。

●コウラ谷 
 ko-uray-us-nay 
 コ・ウライ・ウシ・ナイ 
 そこに・簗・ある・川

 o-uray-us-nay 
 オ・ウライ・ウシ・ナイ 
 川尻に・簗・ある・川

 o-ura → ko-ura の転訛。

 コウラ谷下流にある前田中(マエタナカ)遺跡から打欠石錘が6個出土している。打欠石錘は扁平な川原石の長軸を打ち欠いたもの。

 14個の切目石錘が一括で出土した帝釈峡の久代東山岩陰遺跡(縄文時代後期)では、出土状態から石錘をつけたまま網が置かれていたようで、この遺跡の縄文人は切目石錘が14個付いた網を使って、魚を捕っていたと考えられている。切目石錘は長軸に切れ込みをいれたもの。

 久代東山岩陰遺跡の石錘の一つは長さ6.95cm、幅3.4cm、 重さ74.4gであることから、前田中遺跡の石錘も網用の石錘と考えられる。近年、縄文時代後期における山間部の生業形態として、石錘の多数出土による漁労活動が注目され ている(『石ヶ坪遺跡発掘調査概報U』島根大学法文学部考古学研究室)。

 アイヌ簗漁の一つに、八の字に簗を組み、狭まる末端部の開いた口に袋網を設置し、魚を掬い上げる漁がある。

 アイヌ語「ウライ」は「簗」の意で、「ウライヤ」は「袋網」の意がある。「ヤ」は「網」を意味する。

「前田中遺跡」の打欠石錘

3 高さ7.7cm 重さ76g 粘板岩
4 高さ8.8cm 重さ76g 粘板岩
5 高さ5.8cm 重さ68g 粘板岩

『前田中遺跡』(匹見町教育委員会)より


●ヒノ谷(川口が前田中遺跡)
 pit-un-o-nay
 ピッ・ウン・オ・ナイ
 錘石・そこに・たくさんある・川

 pi-n-o の転訛。

 ヒノ谷川口に前田中遺跡がある。遺跡から粘板岩の6つの石錘が出土しているが、この石錘は川原の石を加工したものである。

 表層地質図では周辺は凝灰岩で川沿いは「礫がち堆積物」となっており、表層地質図の説明では「匹見川およびその支流に沿った堆積しているものが主なもので、礫は一般に堅硬である。径5〜10cmの礫が多い」(国土交通省土地分類基本調査)とある。

前田中遺跡付近の川原

●ネズミイシ谷
 net-puy-us-nay
 ネッ・プィ・ウシ・ナイ
 流木・桟橋・ある・川

 netu-pui-shi の転訛。

 「ダヤ前遺跡」の北側で匹見川が曲流し、その曲流部に西からネズミイシ谷が降りている。「流木桟橋」は川岸から川中に流木をさしかけて、その下を通る魚をタモやヤスでとるアイヌの漁のことである。ネズミイシ谷落口は岩礁となっており、流木が溜まっていたと考えられる。

ネズミイシ谷落口の岩礁



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カシミールデータ

ヤマグルマ

総沿面距離20.8km
標高差836m

区間沿面距離
亀井谷
↓ 6.3km
広見山
↓ 1.8km
半四郎山
↓ 5.6km
フチミ橋
↓ 7.1km
亀井谷
  

 
 
 
前田中遺跡・ダヤ前遺跡周辺の表層地質図
(カシミール3D+国土交通省土地分類基本調査表層地質図)
表層地質図の説明(国土交通省土地分類基本調査簿冊)
 
匹見町縄文遺跡の石錘数
 
カメイ谷周辺遺跡の出土石器(下流順)
遺跡名 楔形石器 磨石 敲石 石斧 石匙 石錘 石鏃 削器 掻器 黒曜石片
(乳白色)
前田中(下道川下)         7(5)
ダヤ前(下道川上)              
田中ノ尻(出合原)     14      
蔵屋敷田(出合原)             14
塚ノ町(下臼木谷)                  
 
『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保・北海道出版企画センター)の簗「uray」
周辺縄文遺跡の位置
旧羅漢山からカメイ谷に下りる尾根  1035ピークから
恐羅漢山 旧羅漢山 十方山 焼杉山  広見山から
十方山 ボーギノキビレ オオアカ谷  半四郎山から
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より