山歩き

中津谷…冠山…ウシロカムリ…広高山
2010/1/30

中津谷…ササゲ峠…赤土峠…冠山…ウシロカムリ…ボーギノキビレ…広高山…広高山北尾根…奥出合橋…出合橋…中津谷

■冠山(カムリヤマ・コウソンカムリ)1339m:広島県佐伯郡吉和村字吉和西(点の記) (廿日市市)
■後冠(ウシロカムリ)1300m:広島県佐伯郡吉和村字吉和西 (廿日市市)
■広高山(ヒロコウヤマ)1271m:広島県佐伯郡吉和村字吉和西 (廿日市市)

尾根の送電線鉄塔と女鹿平山
ササゲ峠
西へ延びる新しい林道
林間から見える冠山
赤土峠
ホン谷水源
ブナ林を進む
ブナ林を進む
クルソン岩
冠山懸崖末端の安山岩
冠山下 北面の安山岩の壁
冠山山頂
太田川源流碑
広い平坦地のウシロカムリ南面
ウシロカムリ山頂と冠山
ボーギノキビレ
広高山から見た冠山
広高山
立岩山と大神ヶ岳が一段と迫ってくる
スギ林の平坦地を進む
シナノキ谷
出合橋
 
6:45 中津谷(ナカツヤ) 晴れ 気温−4度
 
ウリハダカエデ

8:15 ササゲ峠
9:40 赤土峠
11:15 冠山
12:05 ウシロカムリ
12:30 ボーギノキビレ
13:00 広高山
14:40 奥出合橋
15:30 出合橋
16:20 中津谷


 通行止めの488号線入口を出発。滑る凍った道を進むと植林地に小谷が降りている。その小谷から山へ入った。暗いスギ林の谷を登り、途中から明るい小尾根に上がった。小尾根から主尾根に出た。送電線鉄塔まで進むと日が当たり始めた。送電線が女鹿平山の西へ延びている。「平成5年度美和町地籍調査」の標柱が立っていた。「あれ、ここは県境だったかな」と一瞬思った。

 尾根に広い登山道が通っており、南へ降りていた。鉄塔を結ぶ道のようである。人間と動物の足跡が続いている。猟師と猟犬のようであった。雪の無い尾根道にクマ糞が残っていた。イノシシの足跡が多い。猟師はイノシシを追っていたのかもしれない。出発から1時間半ほどでササゲ峠に降りた。

 ササゲ峠から尾根を登ると真新しい林道が通っていた。おそらく魚切林道が延長されたものだろう。林道は南へ延びていたが、尾根道を進むと林道終点に出た。林道は終点から北西へ延長されるようだ。雪に沈み始めたところでカンジキを履いた。

ヤマハンノキ 雌花

 林間から冠山が見え始めた。クルソン岩も見える。3時間ほどで赤土峠に着いた。クルソン岩が迫って見える。眼下にホン谷の流れが見える。二次林の小木の尾根が続いたが、標高1200mを超えるとブナ林に入る。冠山南東尾根もブナが多いが、北東尾根は大きいブナが多い。

 ブナ林を抜けると冠山の懸崖にぶつかる。懸崖の真下に立って見上げると緑の葉が出ていた。ヤマグルマのようであった。岩の下に長いツララが下がっていた。立岩を左回りに横切ってみた。冠山の北斜面に入ると気温がグーンと下がりマイナス5度、雪は固く締まっている。西の急斜面を這い上がって山頂に出た。

 冠山展望地でカメラに収め、南へ下った。太田川源流碑に寄り、ウシロカムリへ進んだ。この辺りは広い平坦地で黒ボク土壌である。縄文時代にはススキ草原であったと思われる。ブナ林を緩やかに上がり山頂に着いた。山頂北側も平坦地となっている。

ツルアジサイ

 前方に広高山を見ながらボーギノキビレへ下った。雪の上に落ちていたブナの実をみると種子が残っているものが結構ある。広高山の登りに入ると新しい足跡があった。ヒロコウ谷から上がって来たものか。キビレから30分ほどで山頂。大神ヶ岳と立岩山が迫って見える。

 北尾根を下った。黒い実がたくさん落ちていた。キハダの実であった。少し口に含んでみたが、苦味は無かった。2時間弱で奥出合橋に降りた。橋のたもとで休んでいる人がいた。ウシオ谷から登り、冠山からこちらに降りて来られた方であった。

 小川林道を進んだ。気温が上がり、カンジキを履いても足が沈む。1時間ほどで出合橋に出た。488号線は轍が続いている。雪の国道は岩や枝があちこちに落ちている。10台ほどの四輪駆動車が追い抜いていった。

ツルマサキ
キハダの実
オニドコロ




地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
 

 「黒ボク土をつくった草原

 黒ボク土が日本ででき始めたのはいつ頃か,どのくらいの期間を要したのかを説明しよう.出土する考古学遺物や年代既知の火山灰との関係,腐植に含まれる炭素の放射性同位体による年代測定などを総合すると,黒ボク土は1万年以降になってさかんに出現するようになった.

 この時代は後氷期で,気候は現在にほぼ近いといえる.また,ある仮定を置いて,黒ボク土中の植物珪酸体の蓄積年数(黒ボク土の生成年数にほぼ等しい)を算出すると1〜4×1,000年ぐらいの値が出る.年代のわかった火山灰での例だと数100年でも腐植層は形成できる.

 現在の日本の安定植相は森林であるといわれる.上述のように,黒ボク土が生成するには,少なくとも数100年ぐらいはかかるので,草原がこの期間維持されなければならない.そのためには,森林が破壊され,なかなか復元されないことが必要である.

 天然の作用としては,火山の噴火,山火事,海岸での潮風などがある.火山山麓に黒ボク土の多いのはこれで説明がつくかもしれない.しか し,火山から遠く離れた所でも随所に見出される.そこで,こうした森林破壊要因として浮かび上ってくるのは,人間の作用である.

 黒ボク土の出現が人類の新石器文化とほぼ同じであるのは,偶然ではないような気がする.つ まり,人間の森林破壊(焼却,焼畑,伐採など)が強まった時期である.人間の活動しやすい緩斜地や平坦地に黒ボク土が多いのも,これと関係がないだろうか…

 森林の破壊されたあとには,ススキなどの草本が侵入して原野化することはよく知られ,これ らが採草地として長く維持された例もたくさんある.人間の行為をきっかけとした草原化の問題は,考古学,植物生態学などの分野とも関連 した学際的研究が必要である」
(アーバンクボタ「土壌」HP・加藤芳朗=静岡大学農学部教授)。


■カムリ山・ウシロカムリ山(冠山・後冠山)

★高そん加むり山(吉和村御建野山腰林帳・1725年)
★冠山の名がない(佐伯郡廿ヶ村郷邑記・1806年)
★冠山の名がない(安芸郡佐伯郡図・1810年)
★かむり山(下調べ書出帳吉和村・1819年)
★冠山(芸藩通志・1825年)
★カンムリ(吉和村絵図・江戸末期)
★ウシロカムリ(吉和村絵図・江戸末期)

 冠山の呼び名を時代順に並べてみると、「コウソンカムリ」が最初の呼び名であり、「芸藩通志」で「冠山」と表したため「カンムリヤマ」と呼ばれるようになったと考えられる。

 江戸末期の「吉和村絵図」では冠山を「カンムリ」と表わしているが、「ウシロカムリ」は「ウシロカンムリ」と表わしていない。「カムリ」「ウシロカムリ」の呼び名が古い呼び名であったと考えられる。

●高そん加むり山(コウソンカムリヤマ)
 ukaw-sonno-kamure
 ウカゥ・ソンノ・カムレ
 重なる岩が・非常に・被さる(山)

 ukot-so-kamure
 ウコッ・ソ・カムレ
 互いにくっつく・岩壁が・被さる(山)

●ウシロカムリ山
 mun-sir-kamure
 ムン・シリ・カムレ
 草が・あたり一面・覆う(黒ボク土・ススキの山)

 kaw-son-kamure の転訛。
 kot-so-kamure の転訛。
 un-sir-kamure の転訛。

 「高そん加むり」は「コウソンカムリ」と呼ぶのであろう。

 『吉和村御建野山腰林帳』(1725年)に「高そん加むり山、この山の内。来留尊佛と申石御座候」と記されている。

 「高そん加むり山」は「クルソン岩のあるカムリ山」などと思っていたが、「コウソンカムリ」の呼び名が縄文期からの呼び名であれば上記の意が考えられる。

 冠山山頂は懸崖の上にある。北面を廻ってみたが、かなり大きな懸崖である。表層地質図によると「安山岩質岩石」(冠山角閃石安山岩)に分類されている。ウシロカムリ周辺は黒ボク土壌で、広い平坦地はススキ原であったと考えられる。

 縄文時代、ウシロカムリ山付近は緑の草原であった。林の無い平原から冠山に露出する安山岩の岩山がはっきり見えたと思われる。「コウソンカムリ」「ウシロカムリ」はこのような山の情景を対比して表現した地名と考えられる。

 アイヌ語地名では「カム・ト」(海面にかぶさる・岬)、「アイシニ・エ・カム・ナイポ」(ハリギリ・そこに・かぶさっている・子川)、「ソンノ・ポロ・ワッカ・ウェン・ペッ」(実に・大なる・悪・水・川)などがある。

 アイヌ語「カム」「カムレ」は日本語の「かぶる」「かむる」「かうぶる」(こうぶる・こうむる)などに転訛したと考えられる。


●小川(オガワ)
 horka-pet
 ホロカ・ペッ
 後戻りする・川

●ホン谷(小川の水源)
 pon-horka-pet
 ポン・ホロカ・ペッ
 小さい方の・オガワ(小さい方の・ホロカベツ)

 horka → hoka → oka の転訛。(オガワ)
 pon の転訛。(ホン谷)

 「後戻りする」とは川の向きが反対方向になることである。吉和川から中津谷川に入り、小川の水源に入っていくと川の向きが反対方向になる。このように川の向きが反対になることをアイヌ語では「ホロカ」と呼ぶ。

 志幌加別川は石狩川本流から夕張川に入り、志幌加別川で川の向きが反対方向になる。水源にはポンホロカベツがある。

北海道・志幌加別川(シホロカベツ)
(『北海道の地名』山田秀三より)

石狩川→夕張川→志幌加別川→ポンホロカベツ


●大沼ケ原(オオヌマガハラ)
 onuma-kar-us-i
 オヌマ・カラ・ウシ・イ
 ススキを・刈り・つけている・所(黒ボク土)

●大沼田ノ丘(オオヌマタノオカ)
 onuma-ta-us-nay-oka
 オヌマ・タ・ウシ・ナイ・オカ
 ススキを・刈り・つけている・川・跡(黒ボク土)

 onuma-kara の転訛。(オオヌマガハラ)
 onuma-ta-nay-oka の転訛。(オオヌマタノオカ)

 ウシロカムリ山東西の平坦地を「大沼ケ原」「大沼田」「大沼田ノ丘」などと呼んでいる。周辺は黒ボク土でススキ原であったと考えられる(下の地図)。

 アイヌ語「オ・ヌマ」は「陰部・毛」で陰毛のことである。アイヌ語地名に「ヌマ・ウシ・ホロカナイ」がある。「毛の・多く生えている・幌加内川」の意で、この場合の「毛」は水藻のことであるようだ。同じく「ホヌマペッ」は「毛川」と訳されて、「毛のごとき草を生ず」とある。

 アイヌ伝説によれば、ススキは国土創造神の夫人の陰毛だったと言う。

 「大昔、アカピラという所でコタンカルカムイ(国土創造神)が熊に襲われて負傷した。それを聞いてその妻が泣きながら夫のもとえ駆けつけた。その途中で唾を吐いたらそれが白鳥になった。だから白鳥は女の声で悲しげに泣きながら空を飛んで行くのである。

 また手鼻をかんで投げたらそのやわらかい鼻汁が葭になり、硬い鼻汁(鼻くそ)が荻になった。天国へ去るに当たって人間界で身に着けていた物を投げすてた。肌衣を海に投げると亀になった。肌帯を投げたら蛸になった。

 最後に、その時落ちたホヌマ(陰毛)がラペンペすなわちススキになった。だからススキというものは春になると群がって生えるのである」(『知里真志保著作集』平凡社)。

 アイヌ神謡集には古い言葉が残っており、言わばアイヌ語の古語である。アイヌの伝説にある「ホヌマ」の意味は現在のアイヌ語では失われてしまったが、縄文時代には「ススキ」を表わしていたのかもしれない。


●ボーギノキビレ(広高山南)
 poy-ki-nup-kipir
 ポィ・キ・ヌプ・キピリ
 小さい・ススキ・野の・丘(黒ボク土)

 poi-ki-nu-kipiri の転訛。

 細見谷水源にあるボーキノキビレ(横川越)も黒ボク土であり、同じススキ原であったと考えられる。

細見谷水源のボーギノキビレ(緑色 黒ボク土)
カシミール3D+土壌図GIS


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カシミールデータ

ヤマグルマ

総沿面距離18.7km
標高差724m

区間沿面距離
中津谷
↓ 7.0km
冠山
↓ 3.4km
広高山
↓ 5.0km
 出合橋
↓ 3.3km
中津谷
  

 
 
 
カシミール3D+土壌図GIS
国土交通省20万分の1土地分類調査・土壌図GIS 黒ボク土のみを抽出 緑(黒ボク土) 赤(厚層黒ボク土)
冠山周辺表層地質図(国土交通省5万分の1土地分類調査・表層地質図)
カシミール3D+地質図
ブナと冠山 1200m付近
冠山下 北東面の安山岩の壁
広高山と坊主山 後ろに立岩山 大神ヶ岳 千両山  冠山から
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より