山歩き

坂根…奥三ツ倉…中三ツ倉…那須
2010/1/10

坂根…966P…1215P…奥三ツ倉…中三ツ倉…藤十郎…那須…打梨…坂根

■奥三ツ倉(オクミツクラ)1320m:広島県佐伯郡吉和村吉和西(所在地は十方山の点の記) (廿日市市)

打梨小学校跡
ケルンバットの658ピーク
ヒノキ林を登る
966ピーク
深いノウサギの足跡
1215ピーク
東面
ブナ林を登る
市間山 立岩山 登ってきた尾根
奥三ツ倉
尾根のラッセル道
ラッセル道
藤十郎付近のブナ
藤十郎
那須集落
那須滝
モミ 種鱗
モミ 種鱗と種子
 
 
7:15 坂根 曇り 気温2度
 

10:15 966P
12:50 1215P
14:20 奥三ツ倉
14:50 中三ツ倉
15:20 藤十郎
16:55 ウラオレ橋
17:30 那須橋
17:45 坂根


 県道から山手の集落に入る車道を上がる。下に打梨小学校跡が見える。車道の途中から尾根に取り付く。ヒノキ林の尾根を登る。ツガの大きい木があると思っていたが、雪の上に落ちている種子や種鱗をみるとモミのようであった。後を振り返ると、押ヶ垰断層によって尾根が分離されて小山(ケルンバット)となった658ピークが見える。

 押ヶ垰断層の小鞍部(ケルンコル)を越える。ノウサギの足跡が深い。葉を付けているのはユズリハとソヨゴぐらいである。966ピークの北側をトラバースしていると深い雪にはまってしまった。1000mを越えると一段と雪が深くなる。100mほど上の所を灰黒のノウサギが身軽に跳ねているのが見えた。その辺りまで登ってみると、ノウサギの跳ねた雪の踏み跡は深かった。

 12時を知らせるサイレンが聞こえる。キリイシのタキから上がる尾根の分岐を過ぎて岩場を登ると葉を付けた木があった。果実を付けたヤマグルマであった。ようやく奥三ツ倉から降りる尾根の端の1215ピークに到着。ここまで5時間半もかかってしまった。

ヤマグルマ

 東面が開けてくるが、ガスのため見えるのは近くの樹林だけである。ブナ林を登る。西面の樹林の間から十方山が見える。真っ白い平原に黒い道標がくっきりと見えた。人影は無かった。後に市間山と立岩山が見える。7時間かかって奥三ツ倉に上がった。間近の十方山を眺め、中三ツ倉へ歩を進めると尾根にラッセルの跡があった。

 雪の線路を中三ツ倉へ進んだ。静かな尾根上はどこまでも真っ白い深い雪が続く。30分ほどで中三ツ倉。踏み跡はここから那須へ降りていた。内黒峠へ続いているとばかり思っていたので有り難かった。鍋山と市間山を見ながら藤十郎へ下る。中三ツ倉から30分ほどで藤十郎。

 ラッセルのある下り道は早かった。1時間半ほどでウラオレ橋に出た。雪の那須集落を通り抜けていると山から下りた人に会った。6人が今、十方山に登っているとのこと。それでラッセルされた雪道のあったことが分かった。そこから40分ほどで坂根に帰着。

 
地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


●ワル谷


 ウラオレ谷の水源のカザゴヤキビレと彦八の頭の間にある谷であり、尾根は黒ボク土となっている。古屋敷から彦八の頭の北に上がる谷もワル谷と呼ぶ。ここの尾根も黒ボク土である。アイヌ語の書籍では下のように「ワラ」は日本語からの借用としている。

 war ワル 稲(日本語・知里著作集) 
 waru ワル ヤマアワ(日本語・知里著作集)
 waru-nup-nay ワル・ヌプ・ナイ 藁草・野の・川(日本語・北海道蝦夷語地名解)

 万葉集に「藁解敷而」(藁解き敷きて)とあるので「わら」の呼び名は古い。

 稲藁を積み重ねて保存する「稲むら」の呼び名はいろいろあるようだ。「わらぐろ」「ニオ」「イナコズミ」「トシャク」「藁こずみ」「藁塚」「稲堆」「藁堆」「丸ススキ」「つぼけ」「のおぐろ」「わらぼっち」「すすき」など。

 積み藁を「すすき」と呼ぶ地域は、和歌山・奈良・滋賀などで紀伊半島、熊野地方に多いようである。積み藁がなぜ「ススキ」と呼ばれるのか分からない。アイヌ語では失われた「ワラ」は、稲が無かった古代には「ススキ」と繋がっていたとも考えられる。


●中三ツ倉(ナカミツクラ)


北海道アイヌの仕掛け弓
(『アイヌ自製品の研究―仕掛け弓・罠―』宇田川洋)
糸に触れると矢が飛び出す
「仕掛け弓」とは柄の付いた弓のことである


●那須(ナス)
 nup-sut
 ヌプ・スッ
 野原・の端

●奈須ヶ原(ナスガハラ・那須古名)
 nup-sut-kar-pet 
 ヌプ・スッ・カラ・ペッ 
 野原・の端を・廻る・川<br>

 

 閉音節「p」「t」は省略されて、「ヌプスッ」の呼び名は「ヌス」と聞こえる。那須の古名は「ナスガハラ」と呼び、那須集落をU字形に廻る川の名であったと思われる。曲流川の西は野原、東は山下の野端である。

 栃木県那須町のホームページに次のようにある。

 『那須の語源については、判然としていないが、下記の数種類の説がある…

 那須とは、アイヌ語から変化したものであろうという説。

 (郷土史研究家・蓮見長氏の著書の中に、アイヌ語では野を「ヌブ」といい「ブ」は、声を呑んで発音するため「ヌ」と聞こえる。国語で「野」を古語で「ぬ」と読むから”アイヌ語”から出たものと考えられる。次に麓や裾を表わすアイヌ語に「ヒコツ」というものがある。 また、「ヒコツ」と同じ意味で「シュタ」というのがあり、こちらは、語尾の「タ」を呑んで「シュ」となる。この二つの語を合わせると、「野裾」=『ヌシュ』となり、「ナス」(那須)と聞こえて地名になったと解釈したとある。)

上記の説をアイヌ語に造詣深い金田一博士に、質問状として差し上げたら「直に成立する」との回答を得たとある』(栃木県那須町HP)。


●ジョウゼン(那須川支流)
 

 ジョウゼン谷の川口の上流100mのところに那須滝がある。この滝は古代にはジョウゼンの川口付近にあったと考えられる。それが5000年前と仮定すると後退距離は年2cmである。

●ジョウダン(太田川支流・大古屋上流)
 

 川口から50m入ったところに滝がある。古代には川口の太田川近くに滝があったと思われる。

滝の後退速度(Web検索で判明したもの)

滝名 後退速度cm/年
華厳滝 日光
 高さ50m 幅100m
1.8cm
阿蘇カルデラ外周の滝 1〜7cm
鮎返ノ滝 阿蘇火山・立野峡谷
 高さ14.8m 幅27.6m
8.6cm
称名滝 富山県称名川(推定式)
 高さ350m 幅10〜15m
9〜15cm
5000年前に地名が成立と仮定 以下は推定
宇佐大滝 高さ28m 5000年前浦石川の川口にあったと仮定 4cm
後退距離200m
「寂地滝」 10m 斜滝(ヤケヤマ谷川口から200m上流の寂地川の滝)
 流域面積5111平方m
4cm
後退距離200m
那須滝 高さ8m 5000年前ジョウゼン谷の川口にあったと仮定
 流域面積7064平方m
2cm
後退距離100m
ジョウダン 高さ30m 5000年前川口にあったと仮定 1cm
後退距離50m


●論所(ロンショ)
 

 「論地(ロンジ)、論山(ロンザン)、論所(ロンジョ)。土地の境界、水利権等で論争の対象になった場所」(「西中国山地」桑原良敏)。

 

 日の平山南の論田の頭、三ツ石山北の論中、樽床貯水池東の論山はいずれも黒ボク土であり、濃いススキ原であったと思われる。

●論田の頭(ロンデンノカシラ・ドンデ谷の頭)
 

論田の頭(黒ボク土 Ysi-1)
(以下国土交通省土地分類基本調査土壌図から)
論中(黒ボク土 Ysi-1,Ysi-2,Azo-1,Azo-2)
論山(黒ボク土 Ysi-1)



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カシミールデータ

総沿面距離14.6km
標高差916m

区間沿面距離
坂根
↓ 5.2km
奥三ツ倉
↓ 1.9km
藤十郎
↓ 3.5km
 ウラオレ橋
↓ 4.0km
坂根
  

 
十方山周辺の黒ボク土 赤茶 Ysi-1 (国土交通省土地分類基本調査土壌図)
土壌図の説明(国土交通省土地分類基本調査簿冊)
十方山
中三ツ倉
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より