山歩き

ウス谷林道…ツヅラ谷東尾根…立岩山…タテイワ谷東尾根
2009/12/23

ウス谷林道入口…キヤソウ水源…ツヅラ谷東尾根…尾根登山道…立岩山…タテイワ谷東尾根…右谷分岐…186号線…ウス谷入口

■立岩山(タテイワヤマ)1135.0m:広島県山県郡筒賀村大字上筒賀字立岩山(点の記) 安芸太田町

ウス谷橋付近
鷹ノ巣山
林道分岐
取り付き点のスギ林
アカマツの尾根とブナの葉
ヤマドリ
ヤマドリ
登山道の尾根
登山道の2.9mブナ
左が天上山
立岩山へ上がる尾根
立岩山山頂
立岩山山頂から西へ続く尾根
ミノジ観音(立岩観音)
立岩山西尾根
スギ林を下る
大きいツガの木
雪で埋まる右谷
立岩谷入口
雪の坂原
 
 
8:00 ウス谷林道入口 小雨 気温2度
 
ミヤマイボタ

9:15 キヤソウ水源
12:20 尾根登山道
13:40 立岩山
14:25 タテイワ谷東尾根分岐
15:40 右谷分岐 
16:10 タテイワ谷入口 
16:25 ウス谷入口


 小雨降るウス谷林道を出発。林道入口から積雪が多い。ウス谷も雪で埋もれている。林道はウス谷でカーブする。雪は段々と深くなる。林の先に白く煙る小室井山が見える。林道が北へ向きを変え開地にさしかかると、鷹ノ巣山から東の尾根への展望がある。

 キヤソウの谷の水源でウス谷から降りてくる林道と交差する。北へ進みかけたが、ここまで1時間余りで時間が掛かり過ぎる。市間山へ登って尾根を立岩山へ歩くつもりであったが、深い重たい雪で中々歩が進まない。キヤソウの水源から尾根に取り付いた。

 スギ林に入ると多少雪が少ないようである。尾根はアカマツ林となっている。アカマツ林の中のブナの小木が葉を残していた。尾根も深い雪で、湿気があり重たい。登山道に出る手前のスギ林の中にヤマドリが居た。遠目にも尾が長いのが分かった。

ムラサキシキブ

 尾根に取り付いてから3時間ほどでようやく登山道の尾根に出た。尾根に出ると西風が強く雪が締まっている。カンジキで埋まらない程度の雪質である。ノウサギの足跡が続く尾根を南へ進むと、以前計測した2.9mブナがある。ムラサキシキブのピンクの実がまだ付いていた。

 シケの谷水源のピークへの登りに入ると、ウス谷の向こうに天上山の尾根が見える。ブナの木の幹を水流が走る。キハダ群生地を通り、スギ林の尾根を立岩山へ進む。雪で埋まる岩尾根に這い上がった。山頂は1m以上の雪で埋まっていた。

 雲の中にある十方山から強風が吹き付ける。市間山へ続く尾根に雲間から日が射し雪煙が舞い上がっていた。立岩山貯水池はまだ凍っていない。寒さは今から深まるだろう。風を避けて早々に西尾根に下った。

マツグミ

 ミノジ観音(立岩観音)を通り、細い雪尾根を下る。小室井山は薄煙の中にある。前方に日の平山が見える。タケノオク谷鞍部を通りタテイワ谷東尾根分岐に出た。スギ林の尾根を下ると、嘘のように風が収まり静かな雪道となる。尾根には赤いテープが続いている。

 急な尾根を下っているとノウサギの足跡が続く登山道に出た。雪の覆う右谷に出た。この辺りでも70〜80cmの雪である。ここでカンジキを外し登山道を下った。道にマツグミの枝が落ちていた。30分ほどでタテイワ谷の入口に出た。坂原もまだまだ雪が深かった。

 
地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 冠遺跡、頓原遺跡は旧石器・縄文の遺跡である。松の木峠の黒ボク層は厚さ70cmで1万年以上さかのぼる。吉和には旧石器時代から人々が住み始めたと思われる。

 Ysi-2(50cm以上の層)の黒ボク土が吉和川沿いに続いており、縄文草創期からススキ原などへの火入れが行われた結果と考えられる。縄文遺跡は黒ボク土のある吉和川沿いに、西は冠高原から東の石原まで9kmの間にある(下図)。半坂遺跡には土壙があり、鹿などを落とし穴で獲っていたと考えられる。

 吉和川沿いの人口が増加し、食料を求めて新しく狩猟地を開拓して行ったか、あるいは乱獲によって他の狩猟地に猟の重点を移したのであろうか。それが市間山から日の平山、論田の頭に続く尾根の黒ボク土(Ysi-1)ではないか。この黒ボク層は50cm以下で、縄文前期から中期の6000年から5000年前頃より形成されたと思われる。

 吉和周辺で「Ysi-1」黒ボク土のある大きい地域は、鬼ヶ城山から寺床までの尾根、大町谷上流の角兵衛の墓南から十方林道入口付近までの谷沿い、十方山から内黒峠へ続く尾根、五里山から恐羅漢山の間の尾根である(下図)。吉和の縄文人はこれらの地域を新たな狩場として開拓したのでないか。

 尾根上の黒ボク土(Ysi-1)は新しい狩場であり、谷沿いの黒ボク土は縄文人の新しい居住地であったのかもしれない。

 立岩山周辺や尾根にある黒ボク土が、数千年の間ススキ原に火入れを行ってきた結果であり、それは鹿などを獲る狩猟地の確保のためであったと考えられる。その結果、「ススキ」「鹿」「仕掛け弓」を意味する地名として残ったと考えられる。

日の平山南

●五本カツラノ谷 
 ohon-yuk-turasi-nay 
 オホン・ユク・ツラシ・ナイ 
 山裾を・鹿・登る・沢

 o-pon-yuk-turasi-nay 
 オ・ポン・ユク・ツラシ・ナイ 
 川尻を・小・鹿・登る・沢

 ohon-ku-tura の転訛。
 o-pon-ku-tura の転訛。

●論田の頭(ロンデンノカシラ)
 ironne-tu
 イロンネ・ト 
 草深い・尾根(ススキ原)

 ron-tu の転訛。

 論地(ロンジ)、論山(ロンザン)、論所(ロンジョ)。土地の境界、水利権等で論争の対象になった場所(「西中国山地」)。「ロンデン」が縄文期からの呼び名であれば上記の意。周辺は黒ボク土でススキ原であった。

 次のアイヌ語地名がある。
 ikitara-ironne-i(イキタラ・イロンネ・イ)
 チシマザサ・濃い・所(密生する)

■日の平山西

●クラガ谷 
 ku-rar-ka-pet 
 ク・ラル・カ・ペッ 
 仕掛け弓を・置く・ワナ・沢

 ku-ra-ka の転訛。

●小松原(コマツバラ)
 yuk-o-muntum-hur 
 ユク・オ・ムンツム・フル 
 鹿・多くいる・ススキ原の・丘

 k-o-mutu-huru の転訛。

 小松原は江戸期、草山であった。

●ゴヘイゴヤ 
 yuk-o-he-ko-yan-pet 
 ユク・オ・ヘ・コ・ヤン・ペッ 
 鹿・多い・頭(尾根)・に向かって・上がる・沢

 k-o-he-ko-yan の転訛。

 小松原の黒ボク土は「Ysi-1」の厚さ50cm以下の層である。数千年前、縄文人が新たに開拓した居住区と思われる。南側の大井原山にも大きな黒ボク層がある。

■市間山・立岩山西

●清水(セイズイ) 
 sup-tuye 
 スプ・ツィエ 
 ススキを・刈る(黒ボク土 Ysi-1)

 sup-tui → suu-tui の転訛。

●ツエ谷 
 sup-tuye-us-nay 
 スプ・ツィエ・ウシ・ナイ 
 ススキを・刈る・いつも刈る・沢

 立岩ダム南の三ノ原からダム北にかけての太田川右岸に大きな黒ボク土(Ysi-1)の層がある。土壌図を見る限り立岩ダムから下流の太田川沿いに、黒ボク土は無いようだ。黒ボク土は吉和川(Ysi-2)から駄荷(Ysi-1)、小松原(Ysi-1)と続いて立岩ダム周辺に至る、連続性のあるものである。吉和の中心部に居住していた縄文人が数千年前、吉和の東へ新たな居住区を開拓したと思われる。

 清水もツエ谷も同じ地名である。

●タユウ谷(大休みの丘に上がる谷)
 putu-yuk-us-pet 
 プト・ユク・ウシ・ペッ 
 その川口に・鹿が・多くいる・沢

 tu-yu-u の転訛。

●ユズリハ(大休みの丘別名) 
 yuk-turasi-pa 
 ユク・ツラシ・パ 
 鹿が・登る・入口

 yu-tura-pa の転訛。

●大休みの丘(オオヤスミノオカ) 
 oo-ya-sup-us-nay-oka
 オオ・ヤ・スプ・ウシ・ナイ・オカ
 深い・丘の・ススキ・群生する・沢の・跡

●クラ谷 
 ku-rar-pet 
 ク・ラル・ペッ 
 仕掛け弓を・置く・沢

 「クラ」を含む地名は下記にあるように「黒ボク土」のある所か、その周辺に多い。

★イワクラ谷 広見川から焼杉山へ上がる谷
★クラガ谷 細見谷から東の尾根へ上がる谷
★奥三ツ倉・中三ツ倉・前三ツ倉 十方山北尾根
★クラ谷 市間山西
★クラガ谷 日の平山西

 帝釈峡遺跡群と黒ボク土の位置を下図に示した。遺跡周辺に厚さ50cm以上の黒ボク土が大きい部分を占めている。縄文早期初頭から弥生後期以降の遺跡から出土した大型・中型哺乳動物個体数(下図)合計では、ニホンジカ108、イノシシ98、タヌキ68、アナグマ27、ニホンザル14、テン12、カモシカ11の順となっている。

 このほかに哺乳動物一覧ではノウサギ、ツキノワグマがある。鳥類ではヤマドリもある。ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ニホンザル、テン、ヤマドリなどは西中国山地にも多い。これらの動物を捕獲した仕掛け弓場が「クラ」地名として残ったのではないか。

 帝釈峡遺跡群は神竜湖の南側に続いている。

■市間山・立岩山東

●ユキガ原 
 yuk-ika-us-hur 
 ユク・イカ・ウシ・フル 
 鹿が・越える・いつも越える・丘

 yuk-ika-huru の転訛。

 イチマ谷水源の左岸の山手にユキガ原がある。ユキガ原を越え、牛首を通って市間山やハチガ谷の頭に上がっていたと考えられる。

 イチマ谷の入口に住むおじさんはイチマ谷の奥で鹿の角を拾ったと言って見せてもらったことがある。この辺りでは鹿は最近まで生息していたようだ。

●ツヅラ谷 
 (yuk-)tu-turas-nay 
 (ユク・)ツ・ツラシ・ナイ 
 (鹿が・)山に・登る・沢

 「ズラ」「ヅラ」「ツラ」を含む地名は「西中国山地」に多い。カズラガサク、カズラガ、カズラーマノエキ、カズラヤ、ツヅラガサコ、下ツヅラ、カツラ、カツラガ、カツラノエキ、五本カツラ などがある。アイヌ語(縄文語)の「ユク・ツラシ」から派生したと思われる。

 「ツヅラ」は頭の「ユク」が省略された形と考えられる。鹿から始まるアイヌ語地名に以下がある。

 yuk-turasi-pet
 ユク・ツラシ・ペッ
 鹿が・登る・沢

 yuk-ru-pes-pe
 ユク・ル・ペシ・ペ
 鹿が・路を・下る・沢

 yuk-kut-ika-us-i
 ユク・クッ・イカ・ウシ・イ(ユクチカウシ)
 鹿が・岩崖を・こぼれ落ちる・いつもする・所

 「鹿が岩崖をこぼれ落ちる」というのは、鹿猟のことである。鹿を断崖絶壁に追い込んで、鹿が自ら落ちる様を言っている。そのような崖下から鹿骨がたくさん発掘されている。「ユクチカウシ」の呼び名に近い地名が市間山の東にある「ユキガハラ」である。

 ツヅラ谷は鹿の通り道であったと思われ、「五本カツラノ谷」と同じ意である。

吉和の縄文遺跡

★冠遺跡(旧石器・縄文早期)
  石器製作遺跡
★飯山貯水池遺跡(縄文土器・石鏃)
  縄文土器・石鏃
★頓原遺跡(旧石器・縄文早期)
  原産地における石器製作遺跡
★焼山遺跡
  黒曜石石鏃
★汐原遺跡
★半坂遺跡(縄文早期・土壙)
★石原遺跡(弥生・縄文)


 『書出帳・吉和村』(1819年)の「物産」の「草花之類」の項は「茅 白茅 犬蓼…」の順にあり、この時代、ススキ類などが草花の産物の中で多かったと思われる。

 同じく「獣之類」は「熊 狼 猪 鹿…」と続く。吉和地域では鹿は絶滅したが、この時代はまだ多く居たようだ。今年の2月に吉和南10kmの横山の南側に鹿の糞があったので、この辺りは鹿の生息域のようである。

 下山の小祠に「鎌ヶ森明神」があり、「往古猟師犬引狩ニ出…猪鹿ヲ取」とある。

 「牛馬 二百六疋」とあり草山として、近くでは「駄荷山 石原山 小松原畠へり」などがある。
 
 鹿の角を祀る社がある。

 美濃木神社(花原)・湯元神社(熊崎)・金比羅社(田尻)・王元社(田中原)・黄幡社(熊崎田中原境)

 『佐伯郡廿ヶ村郷邑記』(1806年・吉和村抄)に猪鹿猟の記述がある(『吉和村誌』から)。

 「猪鹿 山広く至て多し。雪降る時は土人鎚を持、鹿道に出迎ひ、片への雪を分け穴となして隠れ、待受けて是を取る。常に鹿群多し。弐拾、参拾連れ、其中に一角又三角有りとなり。一年山論見分に行しに十六匹の群に出合しが、その足音山振動せり」


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カシミールデータ

モミ

総沿面距離10.7km
標高差631m

区間沿面距離
ウス谷入口
↓ 4.8km
尾根登山道
↓ 1.5km
立岩山
↓ 2.3km
右谷分岐
↓ 2.1km
ウス谷入口
  

 
市間山 立岩山 日の平山周辺の黒ボク土 赤茶 Ysi-1(国土交通省土地分類基本調査土壌図)
吉和の縄文遺跡と黒ボク土 茶 Ysi-2・赤茶 Ysi-1 (国土交通省土地分類基本調査土壌図)
吉和周辺の「Ysi-1」黒ボク土(赤茶)
●御境から恐羅漢山の尾根 ●十方山から内黒山の尾根 ●大町谷から十方林道入口の谷沿い 
●鬼ヶ城山から寺床までの尾根 ●論田の頭、日の平山から市間山の尾根 ●大峯山の尾根
立岩山周辺の土壌図の説明から(国土交通省土地分類基本調査簿冊)
帝釈峡の遺跡(黒字) 茶色(深層黒ボク土壌 Oya)・薄茶(黒ボク土壌 Nan) (国土交通省土地分類基本調査土壌図)
 白石洞窟遺跡・馬渡岩陰遺跡・猿神岩陰遺跡・寄倉岩陰遺跡・雄橋野呂洞窟遺跡・名越岩陰遺跡・猿穴岩陰遺跡
 神竜湖の南側に遺跡が続く
帝釈峡遺跡群
縄文時代の哺乳動物一覧(『帝釈峡遺跡群』吉備人出版) 観音堂洞窟遺跡は神竜湖の南側
遺跡層別哺乳動物の個体数(『帝釈峡遺跡群』吉備人出版) 観音堂洞窟遺跡は神竜湖の南側
帝釈峡周辺の黒ボク土(国土交通省土地分類基本調査簿冊)
立岩貯水池と十方山
市間山
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より