山歩き

コウイ谷…高井山…コウイ谷…三葛
2009/12/12

三坂橋…三坂八郎林道…コウイ谷(西)…高井山…コウイ谷(南)…ヒロコウ谷林道…三葛…42号線…三坂橋

■高井山(コウイヤマ)1097.4m:島根県美濃郡匹見町大字紙祖 (益田市)

紙祖川と三坂谷落口 右
三坂谷右岸の水路
ミチガ谷対岸の伐採された平坦地の川原
スギオ谷落口の対岸の頭上にある小山
前方にシシガクチ、立岩山が見えてくる
三坂谷とコウイ谷の合流点の少し上流辺りに工事道が通る
合流点付近に大きい堰堤がある
コウイ谷入口
コウイ谷入口右岸に石垣がある
最初の左谷の滝
分岐の石積と左谷の小滝
分岐の滝 右の谷へ
ガスの中の滝
最後の滝
コウイ谷水源
高井山
ガスのコウイ谷(南)を下る
コウイ谷(南)の滝 滝はこれ一つだけであった
ここからスギ林となる
ワサビ田
西側の伐採地
ヒロコウ谷林道
石止め堰堤の下側の小滝
石止め堰堤と上流側
殿屋敷遺跡 縄文晩期
上側ギオン谷左岸と落口付近のススキ原
三坂橋上流の堰堤
 
 
7:15 三坂橋 小雨 気温9度
 
カブ

8:15 コウイ谷入口(西)
10:40 高井山
12:20 コウイ谷入口(南)
13:05 魚切
13:40 ギオン谷入口
14:10 イゲン谷入口
14:25 三坂橋



 三坂橋付近を出発、三坂八郎林道を上がる。三坂谷の川口から200mほどの所に小滝がある。右岸に水路が続き取水堰があった。笹山へ水を引いているのだろうか。シミズガ谷の左岸に林道がある。ヒルタの谷の川口は広い平坦地となっている。オオエキの谷を過ぎてミチガ谷に出ると、三坂谷右岸は広い川原で両岸とも伐採され裸の山となっている。

 テラオの小谷を過ぎ、スギオ谷の対岸は小山が頭上にある。スギオ谷の先から三坂谷の上流が広く開けてくる。シシガクチから立岩山(赤谷山)の山々は雲が掛かっている。三坂谷を塞ぐ大きい堰堤が見えてくる。堰堤のすぐ上流は三坂谷とコウイ谷の合流点である。

 合流点付近の平坦地と周辺の山は伐採されて工事道が通っている。林道は東へ大きく曲がり、コウイ谷の入口を通る。コウイ谷の右岸に入ると、上に石垣がある。山道はすぐ左岸に渡る。谷の分岐は二つの谷とも滝となっている。山道は左岸を回り込み滝上に出る。道は右岸に渡る。

ムラサキシキブ

 次の分岐の左の谷にワサビ田の石積が残っている。道は右の谷へ続く。次の分岐では左右に細い水路のような滝がある。左岸に道があったようだが、崩れている。左岸を廻り滝上に出た。次の分岐を左に進むと小滝がある。

 高度が上がり、最後の滝はガスの中にあった。水源の谷に入る。ササ帯に入り尾根に出た。そこからほどなく山頂。ガスでまったく展望は無い。ササの急坂を下り、南のコウイ谷を降りた。谷は涸れている。大きい滝があったが水はほとんど流れていない。雨が無ければ涸れ滝のようである。

 北側のコウイ谷と違って滝は一つだけであった。ほどなくスギ林に出た。スギ林を下って行くとワサビ田があった。ワサビ小屋の横を通り、下って行くと伐採地となっている。両岸が伐採され裸の山となっている。伐採された谷のワサビ田はスギの枝で埋まっていた。山の斜面には枝の付いた木が山のように積まれていた。

フユイチゴ

 山道を下り広高谷林道に出た。林道を150mほど上がると小滝がある。滝は白く泡立っていた。滝上に石止め堰堤があり鉄柱が立っている。堰堤の上流はゴーロで白く泡立ちながら堰堤に流れている。

 ヒロコウ谷林道を下った。右岸にワサビ畑が現われると左岸はススキ原となっていた。三葛集落が見えてくる。牛尾原を下って行くと「狗院社」(グインシャ)の看板があり「天狗を祀る」と書いてあった。ウシオ谷左岸の尾根の先端に小さい社が見えた。

 河内橋を渡ると「殿屋敷跡」がある。戦国の屋敷跡であるが縄文晩期の土器が出土している。仲河内橋を渡り、ツムギ谷の魚切滝まで入ってみた。

 引き返してヒロコウ谷林道を下り、小川崎橋を渡った。42号線沿いの三葛川を上がるとギオン谷が落ちている。ギオン谷入口左岸はススキ原となっていた。紙祖川左岸の五百田、陣ヶ原の縄文遺跡があった所を下り、イゲン谷落口に出た。大きい堰堤の先はゴルジュとなり下流にコカレイ谷が落ちている。そこからほどなく三坂橋である。


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


●コウイ谷(西)
 pon-koy-us-pet
 ポン・コイ・ウシ・ペッ
 小さい・浪・ある・川

●コウイ谷(南)
 poro-koy-us-pet
 ポロ・コイ・ウシ・ペッ
 大きい・浪・ある・川

 koy の転訛。

●広高谷(ヒロコウタニ)
 poro-koy-us-pet
 ポロ・コイ・ウシ・ペッ
 大きい・浪・ある・川

 poro-koy の転訛。

★高井山(コウイヤマ)
 小さい方のコウイ谷の山

★広高山(ヒロコウヤマ)
 大きい方のコウイ谷の山(ヒロコウ谷の山)

 高井山の西と南にコウイ谷がある。アイヌ語地名では同じ山系に同名の谷名がある場合、「poro」(大きい)「pon」(小さい)を頭に付けて区別する場合がある。

 西のコウイ谷落口付近に大きな堰堤が出来て、その付近の地形が様変わりしている。南のコウイ谷落口から150m上流に小滝があり、上流がゴーロとなっている。この小滝とゴーロは2000年前、コウイ谷の落口付近にあったと思われる。

 ヒロコウ谷のコウイ谷落口を起点とした流域面積は5912平方mである(下地図)。寂地川とヤケヤマ谷合流点を起点とした寂地川の流域面積は5111平方mで、「寂地滝」は合流点から200m上流にある(下表)。

 滝の後退速度は流域面積に比例し、滝の高さに反比例する。これらの数値から縄文晩期の2000年前、コウイ谷の落口に小滝とゴーロがあったと推定した。下流に縄文晩期の殿屋敷遺跡がある。「ヒロコウ」の地名は縄文晩期の比較的新しい地名と考えられる。

滝の後退速度(Web検索で判明したもの)

滝名 後退速度cm/年
華厳滝 日光
 高さ50m 幅100m
1.8cm
阿蘇カルデラ外周の滝 1〜7cm
鮎返ノ滝 阿蘇火山・立野峡谷
 高さ14.8m 幅27.6m
8.6cm
称名滝 富山県称名川(推定式)
 高さ350m 幅10〜15m
9〜15cm
5000年前に地名が成立と仮定 以下は推定
宇佐大滝 高さ28m 5000年前浦石川の川口にあったと仮定 4cm
後退距離200m
カンス渕 高さ2m 1cm
竜尾滝 高さ15m 2段(焼山谷)
 流域面積2705平方m
0.8cm
後退距離40m
「寂地滝」 10m 斜滝(寂地川)
 流域面積5111平方m
4cm
後退距離200m
ウサゴエ滝・ククリキ滝 上下8m
 同面積565平方m・363平方m
後退距離10m
コウイ谷(南)落口上流150mの滝
 高さ5mで小滝とゴーロが続く
 同面積5912平方m
7.5cm
縄文晩期から後退
2000年前からの
後退距離150m

ギオン谷の黒ボク土 茶色 Azo-2

●ギオン谷
 ki-o-pet
 キ・オ・ウン・ペッ
 ススキ・群生する・川

 ki-o の転訛。

●ギオン谷
 ki-o-un-pet
 キ・オ・ウン・ペッ
 ススキ・たくさん・ある・川

 ki-o-un の転訛。

 ギオン谷は入口から1km上流まで黒ボク土となっている。黒ボク土はススキ草原の山焼きによって作られる。ギオン谷の入口は現在ススキ原となっている。

三葛周辺の黒ボク土(茶色と赤茶)

●踊り小屋(オドリゴヤ・黒ボク土・ツムギ谷) 
 ki-us-ya-utur-ko-an-pet 
 キ・ウシ・ヤ・ウトル・コ・アン・ペッ 
 ススキ・群生する・岸・の間・に・ある・川

 ki-us-ya-uturu-ko-an → ki-shi-ya-uturu-ko-an →
 oturu-ko-an の転訛。

 積木谷木地屋墓のある付近を踊り小屋と呼んでいる。

 「ツムギ谷の中流の二つの瀬戸を登ったところにある平坦地は現在スギ林となっているが、木地屋の部落があったようで古い墓石がある。春日野満著『ひきみ川』によるとここを「踊り小屋」と呼び、周辺の木地屋の若い男女と村里の若者や娘達が集まって徹夜の踊りに興じた場所だとある」(「西中国山地」桑原良敏)。

 この付近は黒ボク土でススキ原であったと思われる。ギオン谷と同じ意の地名である。三葛の茅場であったか、縄文人の住居があったのかもしれない。踊り小屋とはこの辺りの川名である。

 「キ・ウシ・ヤ」と表すアイヌ語の呼び方は「キシヤ」となる。この付近に木地屋の居住地があったため「キシヤ・ウトルコアン」の呼び名は「木地屋踊り小屋」を連想させ、後世の人々が「若者たちが踊り興じた場所」の意に解したと思われる。

 「セタニウシ・ウトルコツ」と呼ぶアイヌ語地名がある。
 setani-usi-utur-kot
 セタニ・ウシイ・ウトル・コッ
 「ヤナマシ・群生する所・の間の・谷」の意である。

●ヨケ岩(黒ボク土)
 ki-o-ke-iwa
 キ・オ・ケ・イワ
 ススキ・群生する・所の・山

●ヨケイワノエキ(水源が黒ボク土)
 ki-o-ke-iwa-nay-ekimne
 キ・オ・ケ・イワ・ナイ・エキムネ
 ススキ・群生する・所の・山の・川へ・行く

 ki-o-ke-iwa → o-ke-iwa の転訛。

 西ヨケ岩付近は黒ボク土で東ヨケ岩の東側のヨケイワノエキの水源が黒ボク土となっている。ヨケ岩は岩のことでなく、黒ボク土にその語源があるのかもしれない。茅場というより、何か目的があって山焼きを行ったのではないか。アイヌ語の「iwa」は「山」の意で使われる場合が多い。


●ハラカシラ 
 haru-kar-sir 
 ハル・カラ・シリ 
 食料を・作る・土地
 (食料を・取る・山)

 「食料を取る所」であったか。中ノ坪遺跡から大量の石鏃が出土している。鹿を弓で獲っていたのだろうか。あるいはイネなど穀物類を栽培していたのかもしれない。谷の入り口は縄文晩期の殿屋敷遺跡がある。

 アイヌ語地名に「haru-kara-moy」(ハルカラモイ)「食料を作る湾」がある。魚を干して食料を蓄えた所である。

大暮毛無山南の枕牧場周辺の黒ボク土 
赤茶Ysi-1 Ysi-2
冠高原 松の木峠付近の黒ボク土 
赤茶・茶 Ysi-1 Ysi-2

 13000年前、阿蘇の縄文人が野焼きを継続的に行っていた(『阿蘇火山南西麓のテフラ累層における最近3万年間の植物珪酸体分析』宮縁育夫・杉山真二 地学雑誌HP)。

 1万年前から、蒜山高原でも山焼きが行われていた。(『蒜山高原の姶良Tnおよびアカホヤ火山灰調査』)。

 8000年前大暮毛無山南の枕湿原でも野焼きが行われていた可能性がある。

 「160〜140cmの間では草本類のGramineae(イネ科)とArtemisia(ヨモギ属)がたくさん出現している…この層は8000yr B.P.前後のものなので、まだ人類による植生破壊とは考えられない。そこでこの原因として環境の変化とか自然発火による山火事のような現象を考えねばならないが、現時点ではどちらとも結論を出せないので、今後の研究課題としたい」(『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究 W.枕湿原(広島県)』1977)。

 冠高原でも6000年前、野焼きが行われていたと推測される。

 「K−Ah(アカホヤ火山灰)にかけては…この時期にはススキ属、キビ属などが生育する草原植生が成立したと考えられ…定期的な刈り取りや火入れ(焼き払い)が必要である。このことから当時は火入れなど人間による何らかの植生干渉が行われた可能性が考えられる」(『冠遺跡群[』2001)。

 ススキ草原は黒ボク土を作る。中国山地に黒ボク土が続き、草原の広がる大山に黒ボク土が多い。西中国山地の縄文人も野焼きを行っていたと思われる。

 三葛の縄文遺跡は早期から晩期に及んでいる(下記)。9000年から2000年前まで、継続して縄文人が生活していたと思われ、弥生から現代に引き継がれている。黒ボク土は10000年前から現代までに形成されたものであるから、縄文人の火入れによって形成されたと考えられる。ギオン谷にある黒ボク土は三葛の縄文人が野焼きを継続的に行った結果かもしれない。

 「縄文社会は火山灰に腐食植物を含んだ黒ボク土壌、台地地形上に立地する傾向を持つ。黒ボク土壌は縄文人の生業活動による二次林生成の跡なのである(佐瀬隆ほか、2008)。ナラ林帯,照葉樹林帯のいずれの圏域に位置するかに必ずしも関わらない」(『縄文遺跡の立地性向』枝村俊郎・熊谷樹一郎)。

 三葛の中ノ坪遺跡から竪穴式住居跡が発掘され、配石墓が40基発見された。発掘面は239平米で20m四方の三角形の発掘現場から大量の土器や石器が出土した。石鏃だけでも408点あり、利器としての石器では一番多く、形態から見て銛具の機能を持つものであると言う。乳白色の姫島産黒曜石の鏃もあり、九州との交流があったと推測される(下図)。

 遺跡周辺には代々続く住居群があったと思われる。竪穴住居は周期的な屋根の修理のためにススキの確保が必要となる。黒ボク土のあるギオン谷が茅場であったと考えられる。

 屋根の葺き替えは一般的な茅葺家屋で20〜30年と言うが、竪穴式住居の吹き替えの周期はどのくらいだったのだろうか。数年の周期で葺き替えたとすると、ギオン谷のススキは30〜40棟の竪穴住居に供給できたのではないか(下に計算例)。あるいはギオン谷だけでは足りなくて、黒ボク土のある踊り小屋や三坂谷のスギオ谷、三葛川水源に茅場を持っていたと考えられる。

 藩政時代の三葛村の戸数は30〜35戸であった(後期)。平成8年は46軒。

■三葛の縄文遺跡

★陣ヶ原遺跡(ジンガバラ・三葛川左岸) 縄文土器(早期)

★五百田遺跡(ゴヒャクダ・三葛川左岸) 縄文土坑・縄文土器(後期)・縄文石製品(磨石 磨製石斧 打製石斧 石錘 石匙 削器 楔形石器)

★中ノ坪遺跡(ナカノツボ・ヒロコウ谷右岸) 遺構 竪穴住居 土坑(配石土坑など) 柱穴 炉址

 「縄文時代前期(今から約6000年前)の配石墓群が発見されました。配石墓とは、死者を穴に埋葬した後、その上に石を置いたものなのですが、この遺跡では約40基も発見され、その規模は前期のものとしては西日本でも最大級と見られています」(島根県HP)。

★殿屋敷遺跡(トノヤシキ・ツムギ谷左岸) 縄文土器(晩期)

★門田遺跡(カドタ・ヒロコウ谷右岸) 縄文土器(前期) 


竪穴式住居に必要なススキ面積

★一般的な茅葺家屋では1平米の屋根を葺くには15cm角のススキの束が50束が必要

★ススキ1束に3.3平米のススキ面積が必要

★普通の民家の屋根面積は200平米

★縄文の竪穴式住居の床面積は20〜30平米
 中ノ坪遺跡の竪穴住居は18平米(短径4.5m×長径4.8mの円形)

★竪穴式住居の屋根の表面積
 30平米(床面積18平米・高さ3mの場合)

★竪穴式住居1棟に必要なススキ束 
 30平米×50束=1500束

★竪穴式住居1棟に必要なススキ面積
 1500束×3.3平米=4950平米

★ギオン谷の黒ボク土面積(ススキ面積と仮定)
 長さ1000m×幅100m=100000平米

★ギオン谷のススキが1年間で供給できる竪穴式住居数
 100000平米÷4950平米=20棟


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カシミールデータ

トキワサンザシ

総沿面距離16.2km
標高差637m

区間沿面距離
三坂橋
↓ 6.5km
高井山
↓ 1.9km
コウイ谷入口(南)
↓ 4.5km
三葛
↓ 3.3km
三坂橋
  

 
コウイ谷(南)落口を起点としたヒロコウ谷の流域面積 5912平方m
三葛周辺土壌図の説明から(国土交通省土地分類基本調査簿冊)
中ノ坪遺跡から出土した石鏃(『中ノ坪遺跡』匹見町教育委員会) 姫島産黒曜石の鏃もある(89〜91)
中ノ坪遺跡から出土した石器集計表(『中ノ坪遺跡』匹見町教育委員会) 石鏃は408点出土
コウイ谷(南)の落口から150m上流のヒロコウ谷の小滝 上流に石止め堰があり、その先のゴウロまで30mほど続く
三葛集落
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より