6:15 向峠登山口 晴れ 気温13度
マルバルコウソウ |
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6:30 コウラ谷入口
8:35 十王山
9:00 大谷辻
9:10 登山道・大谷辻北鞍部
10:10 小五郎山
10:30 坑道
12:00 鉱山ルート登山口
12:20 向峠溝取水口
12:30 金山谷
12:55 ジャノ谷
14:00 向峠登山口
薄暗い向峠に「野ばら」が6時を告げる。広い向峠の台地を十王山を見ながら東へ進む。向峠小学校を過ぎて、道を山手に上がる。民家に突き当たって右に進むとコウラ谷がある。左岸に林道が上がっていたのでそこを進む。植林地に入るとまだ薄暗い。堰堤を過ぎると、その先で林道終点。
涸れた岩だらけの谷を右岸に渡るとその辺りはゴウロであった。さらに谷を進むと右岸が開けて広い伐採地となっていた。伐採地を谷沿いに進み、谷を登ると石積があった。ワサビ田の跡であった。涸れ谷であるが昔は水が流れていたのであろうか。
スギ林の涸れた谷を上がる。谷だけでなく山の斜面も石が多い。向峠の台地と山の間に「崖錐・泥流堆積物」の大きな層があるが、谷や山の石が下に流されて積もったものであろうか。石垣の間から大きなケヤキが伸びていた。その辺りが一番上のワサビ田であった。
ミヤマガマズミ |
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スギ林をさらに登ると炭焼き跡があった。大岩を過ぎるとササ帯に入る。2時間ほどで背丈ほどのササが伸びる十王山に到着。林で展望は無い。三角点はササに埋もれているのか見つからなかった。
ササ尾根を北へ進む。ウラジロノキが多い。大谷辻を過ぎるとササが低くなり、ほどなく大谷辻北の鞍部の登山道に出た。鞍部にドングリがたくさん落ちていた。カエデが紅葉しつつある。展望地に出ると東側が開ける。高速道の先にある鬼ヶ城山が目立つ。
さらに登ると西側が開ける。登ってきた尾根の先に大将陣山が見える。ほどなく山頂に出た。山頂に「金山谷鉱山ルート」の道標がある。西側は安蔵寺山、香仙原、白旗山、東側は冠山、鬼ヶ城山、羅漢山が展望できる。風が強くだんだんと寒くなってきた。早々に鉱山ルートを下山。
鉱山ルートは「小五郎山金山谷鉱山ルート開拓団」とその協力者によって2009年4月につくられた。
柔らかい山道を20分ほど下ると坑道跡。甲羅ヶ谷枝谷の左岸に坑道の穴が開いている。坑道に入るとすぐ右手に立坑がある。坑道は甲羅ヶ谷水源の岩盤を掘り進み、西へ延びている。床に敷かれていた丸太が残っており、奥へ進むと崩れた跡がある。天井は銀色の粒が星のように輝いていた。
坑道の天井は星のように輝く |
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石を割ると青錆が |
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外に積まれている石を割ってみると青く錆びていた。銅鉱石のようである。坑道から少し下ると甲羅ヶ谷に立坑がある。谷の隅に下に掘り下げてある穴があり、埋もれかけている。少し下ると大きい石垣がある。そこから少し下手に「小五郎山鉱山跡について」の錦川観光協会の説明板がある。その説明によると鉱山は平安時代にさかのぼると言う。
さらに下っていくと谷筋の登山道に転落防止のロープが張ってある。大分下って展望所に出た。展望岩に上がると深谷川の西の山並みが見える。そこから少し下ると「修験堂跡地」と書かれた寺床に出た。そこはゴウロ地帯で上が小鞍部になっている。小鞍部に上がってみたが礎石のようなものは無かった。
ヒヨドリジョウゴ |
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植林地の尾根を大分下り、甲羅ヶ谷沿いのオンドル跡地に出た。大正時代の採掘の名残りであろうか。そこからほどなく登山口。甲羅ヶ谷堰堤の横の広場に「小五郎山金山谷鉱山ルート」の看板がある。さらに下って深谷川に出た。甲羅ヶ谷に架かる橋を渡り、左岸を進むと深谷川に架かる甲羅ヶ谷橋がある。ここから深谷川の両岸に車道が通っている。
深谷川左岸に取水口がある。「向峠溝」である。江戸天保年間に向峠の山田利左衛門の発起により、向峠まで約6kmの用水路を15年間の歳月をかけて完成させた。現在はこの用水路に導水管が敷設されている。
金山谷の地名が鉱山に由来する地名か、地元の人に聞いてみると、「甲羅ヶ谷の他にも鉱山があるが、金山谷は鉱山と関係ないと思う」「コカナヤマ谷(金山谷右岸)に鉱山は無い」とのこと。
深谷川にヒノ谷の深い谷が降りている。紅葉が始まりかけていたが、谷底を見ると車道から捨てられたゴミの山となっていた。
初見の里が見えてくると深谷川河口は広い台地となる。1万年以上前、向峠から初美の台地へ高津川が流れていたとは思い及ばない。金山谷から1時間半ほどで向峠バス停に帰着。
ナギナタコウジュ |
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クサギ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
●向垰(ムカタオ)
●深谷川(フカタニガワ)
「高津川では更新世末〜完新世に中〜上流域で河床埋積が発生したため、源流部が宇佐川へと流路を乗り換え、それによって河川争奪が起きたと考えられている」(島根大学HP)。
高津川の水源は田野原であるが、河川争奪前の向峠は高津川の中流域であり、上流域は宇佐川の上流であった。地質図をみると、向峠、宇佐の旧高津川右岸に大規模な更新世後期の崖錐・泥流堆積物(岩塊及び粘土)の層がある。この層は初見、新田、河津に小規模なものがある。
更新世末〜完新世は数万年から1万1千年前の間であるから縄文時代の草創期には河川争奪が完了しつつあったと思われる。高津川水源の星坂遺跡から縄文土器が出土している。向峠や深谷が縄文期からの呼び名であれば、縄文人は河川争奪の現場跡を見ていたと思われる。
国土交通省HPでは、河川争奪の時期を170万年前〜10万年前としているが、縄文地名の存在は縄文草創期の前が争奪の時期と考えられる。
12000年前の縄文草創期、向峠には高津川の川跡が残っていて、宇佐川に奪われた向峠の川床は土砂で塞がれつつあったのであろうか。
深谷川は現在、向峠の段丘の80m下にあり、V字の渓谷となっている。田野原、向峠を通って宇佐川に流れていた旧高津川が存在していた時代に深谷川は無く、縄文草創期には、まだ深いV字渓谷は形成されておらず、浅い谷であったと思われる。
●初見(ハツミ)
●新田(シンタ)
初見は『防長風土注進案』(1841年)にある古い地名である。
「初見、新田、向峠地区の農地の下には旧河床と思われる石礫が残っています」(国土交通省HP)。
深谷側の旧高津川は田野原、初見、深谷大橋付近、深谷川左岸の旧高津川河床を通っていたと思われる。縄文時代にはまだ川跡が残っていたのであろうか。
●星坂(ホシザカ・星坂遺跡・縄文土器)
高津川水源の妙見神社から東の江堂の峠に入る沢のことである。島は妙見神社である。小島神社とも呼ぶ妙見神社は縄文期、水源の沼に浮かぶ島であったか。
星坂は縄文土器が出土していることから縄文人の住居があったと思われる。星坂遺跡はこの沢の右岸の土手にあり、妙見神社から300mのところである。
●エドガタオ(江堂の峠・宇佐郷峠・津和野街道の峠)
江堂の峠は地元では「エドガタオ」と呼ばれている。高津川の水源は大蛇ヶ池だが、縄文人は星坂を水源と考えていたのかもしれない。新田や初見を流れていた高津川は塞がっていたのであろうか。
妙見神社から小さい沢が江堂の峠へ上がっている。
妙見神社(小島神社) |
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星坂遺跡 |
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●柳瀬(ヤナセ)
柳瀬の東側に旧宇佐川の河川跡がある。旧高津川は向峠から宇佐川河川跡を通っていたと思われる。柳瀬の下流が争奪点であり、河川争奪後、柳瀬の曲流地形が生まれたものであろう。柳瀬の西側の川の先端は現在も浸食が進みつつある。
この曲流は最初は小さなものであったが、南西への侵食が進みだんだんと曲流地形が成長したと思われる。南西へ侵食する川は「陸へ上がる」ように見える。曲流地形の内側にあるのが柳瀬である。
曲流部を南側から見た柳瀬とオオ谷 |
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●宇佐川(ウサガワ)
●宇佐郷(ウサゴウ)
●オオサコ谷(高津川右岸の水無川に下りる谷)
宇佐川上流部が高津川であった時代、宇佐郷を流れる宇佐川は涸れ谷であったと思われる。水源を奪われた現在の高津川は「大蛇ヶ池」が水源となっている。「大蛇ヶ池」の下流は伏流水になっている所がある。水源の無い河川争奪前の宇佐川は涸れる川であった。
高津川右岸の藏木の水無川にオオサコ谷が下りているが、縄文時代には水無川であったと思われる。周辺に蔵木観音堂下遺跡、旧役場屋敷遺跡の縄文遺跡がある。
カシミールデータ
シロダモ |
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総沿面距離14.3km
標高差776m
区間沿面距離
向峠登山口
↓ 3.0km
十王山
↓ 2.5km
小五郎山
↓ 2.8km
鉱山ルート登山口
↓ 6.0km
向峠登山口
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