山歩き

コブドチ谷…広高山…坊主西峯…坊主山 2008/11/9
出合橋…小川林道…コブドチ谷…広高山…県境尾根…1099P…坊主西峯…坊主山…ワサビ田の小谷…小川林道…出合橋

■広高山(ヒロコウヤマ)1271m:広島県佐伯郡吉和村字吉和西 (廿日市市)
■坊主山(ボウズヤマ)1136.5m:広島県佐伯郡吉和村字吉和西(点の記) (廿日市市)

舗装工事中の小川林道入口
水量の少ない小川
コブドチ谷入口
コブドチ谷入口の小滝
コブドチ谷
所々に残るワサビ田の石積
オヒョウニレ
笹が全く無いコブドチ谷鞍部
ブナのある尾根道
冠山

県境尾根の道

1099ピークから見える大神ヶ岳
折られたクリノキ
スギの巨木 坊主西峯の西尾根
坊主山山頂
谷の上部のワサビ田
6:55 出合橋出発 曇り 気温10度
 
イヌトウバナ

8:30 コブドチ谷
10:25 コブドチ谷鞍部
10:50 広高山
12:30 1099P  
13:40 坊主西峯
14:30 坊主山
16:20 小川林道 
16:35 出合橋 


 小川林道入口の出合橋を出発。小川林道は12月26日まで舗装工事を行っている。スギ林の中に黄葉した針葉樹がある。カラマツが所々あるようだ。大型の舗装車両が2台止まっていた。紅葉は過ぎたようだが、山々は赤く染まっている。

 落葉の道を進む。ウリハダカエデが目立つ。オオモミジ、イロハモミジ、ハウチワカエデ、コハウチワカエデ、イタヤカエデ、チドリノキ、コミネカエデ、サワシバ、アカシデなどの枯葉が落ちている。小川の水量は少ない。

 シナノキ谷の入口はケヤマハンノキが群生している。雌花序と果実が下がっている。シナノキ谷に架かる奥出合橋を渡ろうとすると、谷から100羽を超える小鳥が一斉に飛んでハンノキに留まった。うす茶色のスズメより少し大きい小鳥であった。

ムラサキマユミ
コミネカエデ

 出合橋から1時間半ほどでコブドチ谷に到着。コンクリート壁を越えて谷を進むとすぐに小滝がある。左岸に谷を越える道があった。滝の上にワサビが生えていた。上流はワサビ田のようだ。石積が所々残っている。

 谷の中ほどの所のスギ林の中にオヒョウニレがあった。その周りに3本生えていた。左岸に道が残っている。大分上の右岸の小谷にワサビ田があった。ハスノハイチゴのところを通り2時間ほどで広高山北の鞍部に出た。この尾根は笹がまったくない。冠山火山の影響であろうか。

 笹のない尾根を登る。葉も落ちているので歩きやすい登り道である。大きなブナがあった。振り返ると大神ヶ岳から立岩山への展望がある。鞍部から30分ほどで広高山。山頂周辺には笹がある。林間から冠山、大神ヶ岳が見える。

 笹尾根を下った。コミネカエデの赤が映える。県境尾根を降りて行くと笹が無くなる。紅葉の尾根とスギ林を進む。1時間半ほどで1099ピーク。林の間から大神ヶ岳が見える。ヒロコウ谷から上がるノブガハラ谷の鞍部は広いスギ林となっている。県境尾根には触れると痛いカヤと痛くないイヌガヤの両方がある。

小川
クリノキの爪痕

 坊主西峯に登る手前のスギ林のクリノキにクマ棚があった。幹に爪痕があり、クリノキの太い枝が折られて転がっていた。広高山から2時間半ほどで坊主西峯。スギ林の中で展望はない。「広島山稜会」の分水嶺の標識がある。

 県境を離れ西の緩やかなスギ林を下る。所々のスギの巨木が残る。ハチロウ杉の母樹林であろうか。スギ林の中に大きなブナが所々ある。スギが植林される前は大きいブナの茂る山であったと思われる。カラスがスギの上で鳴いている。

 坊主西峯から1時間ほどで坊主山。スギ林の中で展望はない。三角点は倒れた木の下にある。山頂のスギ林の中にウリハダカエデの黄色の葉が金色に輝いていた。東のスギ林の尾根を進んだ。

 尾根を歩き、シゲノ谷を降りる予定であったが時間がなくなった。1007ピークの北から降りる小谷を下った。倒木の埋まる谷を越えると、上部は放棄されたワサビ田であった。1時間余りで小川林道に出た。谷の入口は管理されているワサビ田であるが、上部まで手が届かないようだ。薄光がさしはじめ、紅葉が映える山々を眺めながら、ワサビ田のある林道から15分ほどで出合橋に帰着。

ハンノキに留まる小鳥
高さ2mのオオウバユリ
大神ヶ岳 広高山から


地名考

 縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。

 日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。

 東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。

 (以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)

 吉和は縄文の遺物が多い所である。

 東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
 また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。


●坊主山(ボウズヤマ)
 poro-moy-putu-nay
 ポロ・モイ・プツ・ナイ
 大きい・渦の・川口の・川(オモ川の山)

 山名は山麓地名からつくられる場合が多い。周辺の谷・川名で検討するとオモ川が坊主山の山麓地名と思われる。主川と小川が交わる地点は水量が多いときは渦巻いている。

 poro-moy → o-mo の転訛。
 poro-putu → po-u-tu の転訛。

 『北海道蝦夷語地名解』復刻版(永田方正・草風館)に、
 poro-moy-putu がある。「大渦の川口」の意である。

●広高山(ヒロコウヤマ)
 poro-kotan-nay
 ポロ・コタン・ナイ
 大きい方の・村・川

 広高山はヒロコウ谷の山の意である。ヒロコウ谷は三葛から上がってくる谷であるが、大村とは三葛のことであろうか。

 『データベースアイヌ語地名2 石狩T』(榊原正文・北海道出版企画センター)に、
 poro-kotan-nay がる。「大きい方の・コタン・川」の意である。

●ノブガ原谷(ノブガハラタニ)
 nupka-para-pet
 ヌプカ・パラ・ペッ
 野原・広い・川

 nup-ka-para-pet
 ヌプ・カ・パラ・ペッ
 野・の上・広い・川

 ノブガ原谷の鞍部は広いスギ林となっている。

●コブドチ谷
 tapkop-tochi-nay
 タプコプ・トチ・ナイ
 小山の・トチノキ・沢

 コブドチ谷にはトチノキが多い谷ではないが、そこそこある谷である。「タプコプ」は小山の意であるが、この形のアイヌ語地名は多い。

 tapkop-sar タンコブ山の・茅
 tapkop-nup タンコブ山の・野
 tapkop-kotan タンコブ山の・コタン
 at-tapkop オヒョウニレの・タンコブ山
 tochi-nay トチノキの・沢

●シナノキ谷
 sin-noski-oma-nay
 シン・ノシキ・オマ・ナイ
 山・の中央・にある・川

 シナノキ谷は小川の中央辺りにある谷である。この谷は一度歩いたが、シナノキは無いようだ。

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カシミールデータ

ノコンギク

総沿面距離15.6km
標高差590m

区間沿面距離
出合橋
↓ 4.0km
コブドチ谷
↓ 2.7km
広高山
↓ 5.1km
坊主山
↓ 2.2km
小川林道
↓ 1.6km
出合橋
 

 

小川の山
県境尾根の紅葉
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より