山歩き

二軒小屋…水越峠…細見谷 2008/10/26
二軒小屋…水越峠…下山橋…カラ谷…下山橋…水越峠…二軒小屋

■細見谷(ホソミダニ):広島県佐伯郡吉和村字吉和西(十方山・点の記) 廿日市

焼けたような小屋跡
舗装された終点
水越峠
ケンノジ谷
十方林道
オヒョウニレ
細見谷
細見谷
十方林道
細見谷

シシガ谷

砥石川山
8:00 舗装地点(小屋跡)出発 雨後曇り 気温9度
 
サワガニ

8:50 水越峠
11:20 下山橋  
12:30 ワサビ田 
13:20 カラ谷 
14:15 下山橋 
15:00 水越峠 
15:40 二軒小屋 


 
 大規模林道の舗装された終点の手前を出発。最奥の民家があった所の先まで舗装されていた。一番奥の民家は火災にあったのか、焼けた柱が残っていた。

 宮本常一は昭和14年11月30日ここを通っている。『横川から奥、古屋敷、二軒小屋などをすぎて行く。いずれもさして古くない開墾部落で、寥々たるところであったというが、近頃では漸次家も増えた。増えたと言いつつまた家を捨てるものもあった。雪にうずもれた廃屋も見かける』(『村里を行く』「西中国山地」桑原良敏)。

 焼けた民家は開墾部落にあった一つであろうか。舗装地点から林道に入るとウマバノ谷。紅いハウチワカエデが落ちた道を進む。十方山から降りるシシガ谷が林道と接する所にサカモリ谷が下りている。

オオハンゴンソウ

 結城次郎氏は昭和6年8月、サカモリ谷から旧羅漢山へ登った。恐羅漢山の山行記録としては初見である『広島山岳会会報9号』にその記録ある。

 『二軒小屋の部落を過ぎ横川に沿うて上流に進むこと約三キロ、川幅は次第に狭くなり左方は十方山、右方は恐羅漢山の大森林が物凄い色を浮かべて迫ってくる。本郷図幅で見ると十方山北麓から出る渓流が横川に注ぐ地点から五十米許下の処、路の右傍に小さな製材小屋の廃址がある。此処が恐羅漢の南麓サカモリ谷という谷で私達は此処から山に入ることにした』(「西中国山地」)。

 サカモリ谷の辺りから「物凄い」森林があったようだ。出発点から50分ほどで水越峠。小雨の中、林道をケンノジ谷側へ降りる。多彩な落葉が林道を埋める。ハリギリ、イタヤカエデ、ウリハダカエデ、ハウチワカエデ、モミジ、ミズナラ、トチノキなどなど。

 紅葉の細見谷林道を進む。シモコムギ谷の下流、ナメラ渕上ノ谷の手前で最初のオヒョウニレを見つけた。細い小木である。そこから下山橋の間に点々とオヒョウの小木があった。林道から見える限り細見谷の左岸にオヒョウはなかった。右岸の小谷を覗いて見たが、谷の中にはなかった。

 オヒョウのある根元を見ると、石が多い。畳山のカタラ谷やタテバシリの谷のオヒョウも石が多い所に生えていた。下流からバイクが爆音をたてて過ぎて行く。

 小雨の十方林道は暗い。右岸の山の斜面はトチの巨木が茂る。原生の森が残っていた時代、細見谷は「真っ暗」であったと言う。

 「昭和26年ごろでしょ う、今の十方林道の形を造り出した。そして島根県側の一部や、広島県側では水越峠のまわりから、十方山にかけての斜面では伐採が始まっとったですが、それでも細見谷のほうはブナの森で真っ暗だった」(「環・太田川2001年9月号」田中幾太郎さんにきく)。

オヒョウ 長者原中ノ谷

 下山橋で一休み。その間にバイクが今度は下流に向かって過ぎて行く。橋から見ると、谷は紅葉で覆われている。下山橋から少し進むと、ボーギノキビレを越えるマゴクロウ谷。長者原上ノ谷付近から長者原中ノ谷にかけてオヒョウがあった。長者原中ノ谷入口に両側にオヒョウの幼木があったので、50mほど中ノ谷を上がって見るとオヒョウの小木が4本あった。

 前方にイノシシが谷側から林道を横切り、山へ入って行った。帰化植物のオオハンゴンソウの花が残る。長者原下ノ谷の先とケヤキ原中ノ谷付近にオヒョウがあった。その先のカラ谷に100mほど入ってみた。細見谷にどこでもあるような小谷であった。細見谷でカラ谷と呼んでいるのはここだけである。

 カラ谷付近から引き返した。サワガニが林道を横切る。バイクが追い越して行く。真っ赤なモミジの道を進んだ。雨は止んでいた。

ススキが生える五里山山頂(1124ピーク)07/7/22

地名考

 縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。

 日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。

 東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。

 (以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)

 今のところ、細見谷に縄文遺跡はないが、匹見、吉和には縄文遺跡が多い。ノブスマ谷、オシガ谷、ザザラのタキ、五里山、ヤマダチ谷などアイヌ語によって説明できる地名が多い。

 東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
 また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。

●京ツカ山(キョウツカヤマ)
 ki-us-tu-ka キ・ウシ・ツ・カ
 茅・群生する・尾根・上(バンキチエキの谷の山)

●バンキチエキ
 pon-ki-us-pet-ekimne-ru
 ポン・キ・ウシ・ペッ・エキムネ・ル
 小さい方の・茅・群生する・沢の・山へ行く・道

●バンキチエキ+京ツカ山
 pon-ki-us-tu-ka-pet-ekimne-ru
 ポン・キ・ウシ・ツ・カ・ペッ・エキムネ・ル
 小さい方の・茅・群生する・尾根・上・沢の・山へ行く・道

●キチダイゴヤ
 ki-us-i-uta-ni-nupuri-ko-yan-pet
 キ・ウシ・イユタニ・ヌプリ・コ・ヤン・ペッ
 茅・群生する・杵・山・へ向って・上がる・川

●ボーギのキビレ
 pon-ki-nup-pet-kipir
 ポン・キ・ヌプ・ペッ・キピリ
 小さい方の・茅・野・沢の・丘

 バンキチエキの谷は西から京ツカ山へ上がっている。 
 アイヌ語の「ki」は、ススキなどのカヤ類を指す。笹で覆われた京ツカ山、五里山の尾根を歩くと、僅かだがススキが穂をだしている。尾根がススキで覆われた時代があったのではないか。「旧羅漢山」の「旧」は「ki-us」が語源と思われる。

 キチダイゴヤは焼杉山へ上がる谷であるが、この付近の尾根もススキの山であったと思われる。

 ボーギのキビレは旧羅漢山から五里山へ続く尾根の鞍部だが、縄文期、この長い尾根はススキ野であったと思われる。広高山南のボーギのキビレも同様であろう。
 

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カシミールデータ

マムシグサ

総沿面距離16.7km
標高差225m

区間沿面距離
小屋跡
↓ 2.4km
水越峠
↓ 3.4km
下山橋
↓ 3.2km
カラ谷
↓ 7.7km
小屋跡
 

 

細見谷
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より