山歩き

2009/4/5
アザミゴヤ谷・丸瀬山
2010/10/31
早水渓谷・丸瀬山

アシ谷…丸瀬山…セキオビラ…ウシロアシ谷 2008/10/18
アシ谷…スキー場…丸瀬山…ゲレンデ…丸瀬山…986P(展望岩)…丸瀬山…焼尾平(セキオビラ)…ウシロアシ谷…スキー場

■丸瀬山(マルセヤマ)1021m:島根県邑智郡瑞穂町大字市木字薊木屋(点の記:986m三角点) 邑南町
■薊木屋(アザミゴヤ)986.5m:島根県邑智郡瑞穂町大字市木字薊木屋(点の記) 邑南町

出発点にある「鉄穴興首…墓」
ゲレンデを上がる
大岩の間を登る
山頂付近のイタヤカエデ
丸瀬山
ゲレンデのイタヤカエデ
ミズナラのクマ棚
986ピークの岩場から見える高速道 右端が猪子山
ウシロアシ谷へ落ちる小谷 この上を山道が横切る

谷の分岐 右がウシロアシ谷

ブナ林を登る
ゲレンデから見る丸瀬山
672ピークと753ピークの間の山中
イタヤカエデ
6:50 スキー場入口出発 晴れ 気温8度
 
ニガナ

8:05 登山口(リフト塔7)
9:35 丸瀬山  
10:15 ゲレンデ 
11:25 丸瀬山 
11:45 986P(大岩) 
12:00 丸瀬山 
12:55 ウシロアシ谷 
14:25 ゲレンデ 
16:05 スキー場入口

 アシ谷がある瑞穂ハイランドスキー場の入口を出発。
アシ谷左岸に「鉄穴興首…墓」と書かれた石碑がある。「中屋…」「一文谷…」の二人の連名の墓のようである。
 「島根県瑞穂町の『鉄穴興首石碑』の周辺(野原建一)」の著作がある。

 アシ谷左岸を上がって見たが、すぐ上で行き止まり。引き返して車道を上がった。スキー場の駐車場へ上がると、猪子山からココノ峠への展望が開ける。丸瀬山の山容が目前にある。スキーリフトはアシ谷に沿って上がっている。ゲレンデの中央に点々とホースが立ててある。人口雪の準備であろうか。

 アシ谷をのぞきながらゲレンデを登る。猪子谷川の水源にオヒョウがあるが、アシ谷にはなかった。7番のリフト塔の向いの小谷に、山道が上がっていたのでそこを登った。伐採された道は薮となっているが、薮を渡りゴーロに入ると樹林の中の歩きやすい道となる。

 樹林にはイタヤカエデが多い。この山にあるのは、葉が五裂するアカイタヤと呼ぶタイプのようだ。アカイタヤは島根県以北の日本海側に分布する。山道の中腹に炭焼き跡があった。アカイタヤの黄葉が目立つ。大岩の多い道である。途中から道が薄れてくるが、テープが西へ続いている。

 オトコヨウゾメの赤い実がぶら下がる。山頂手前で南から上がる山道に出た。山頂のすぐ東にもイタヤカエデがあった。丸瀬山は樹林の中で展望はない。「ここは丸瀬山山頂 とび岩570m→」と書かれた道標がある。

丸瀬山の道標 986ピークの岩を「とび岩」としているが間違いであろう

 トビ岩は丸瀬山のすぐ近くにあるはずだがと思いながら、来た道を引き返して、手がかりを探しながら南のゲレンデまで出てしまった。そのゲレンデにあるアカイタヤが黄葉していた。再び道標でもないかと探しながら丸瀬山へ登り、北の尾根道を進んだ。

クマの爪痕

 ミズナラの枝が派手に折られていた。見上げるとクマ棚があった。ミズナラの木に小さい、浅い爪痕があった。小グマのようである。ほどなく岩が6つ、7つある986m三角点の展望地に到着。遠くは霞むが、眼下に猪子山(郷路橋)の高速道が見える。丸瀬山へ引き返した。

 丸瀬山の南側の尾根にトビ岩があるのではと思い、南へ下りて見たが、帰って検討してみると少し西へ寄りすぎたようであった。
 
 「丸瀬山は島根県側ではよく知られた山である。初見は『石見風土記』(736年・天平8年)にさかのぼる。観音寺原の村人は、1021m峰を大丸瀬、その北西尾根上の937m独標を小丸瀬と呼んでいる。大丸瀬山頂へ至る径はないが、早水谷の水源(セキオビラ)からヤブをこぐのがよい。大丸瀬山の南面にトビ岩という二個並んだ巨岩がある。またこの山についての弘法大師開山の伝承は、島根県側では広く知られており『瑞穂町史』にも紹介されている」(「西中国山地」桑原良敏)。

コウモリソウ

 丸瀬山の南へ回り込む水源を下った。谷筋は当たると痛い背の低いカヤ類がある。少し下った所に炭焼き跡があった。ウシロアシ谷の合流点の手前が小滝となっている。その小滝を横切る山道がウシロアシ谷の右岸を通っていた。谷の合流点の下に下りると、ウシロアシ谷の右岸は崖となっている。この辺りの崖のことをセキオビラと呼ぶのであろうか。

 引き返して、小谷の所まで上がり、ウシロアシ谷右岸の山道を進んだ。道は谷へ降りた所で消失。ウシロアシ谷を少し上がり、東の小谷へ入った。谷の水源から小尾根を登る。若いブナの多い山であった。樹林が切れるとゲレンデに飛び出た。

 丸瀬山を左に見てゲレンデを下った。ナナカマドの赤い実がたくさん生っていた。目立つ黄葉は、やはりイタヤカエデであった。丸瀬山はイタヤカエデの山である印象が残る。

 ゲレンデの先にある東方向の、672ピークと753ピークの山中の間にジグザグの道のように見えるのはカンナ流しの跡であろうか。ケヤマハンノキの多いゲレンデを降りた。出発点まで1時間半ほどかかった。

トリカブト

地名考

 縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。

 日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。

 東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。

 (以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)

 周辺には米屋山遺跡、今佐屋山遺跡、堀田上遺跡 、郷路橋遺跡などの縄文遺跡がある。

 東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
 また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。

●トビ岩(トビイワ)
 

 

 「三ツ石山の山嶺より東にそいて十数町歩にわたり、うつ蒼たる古代林なり、ブナ、カエデ、ナラの老樹にして、樹幹数人の手を連ねて抱くたるもの珍しからず」(『市木村誌』(明治9年)「西中国山地」桑原良敏)。

 「阿佐山の島根県側、瑞穂町内山頂部に残存するブナ林である。林冠を構成するブナは、時として林冠が破壊されて、オオイタヤメイゲツ、アカイタヤ、ミズナラ、コシアブラ、トチノキ、などの他種を混生することがある」(「阿佐山のブナ林」第5回特定植物群落調査)。


●セキオビラ
 

 早水川は早水渓谷とも呼ばれている。その早水川の末端にあるのがセキオビラである。セキオビラとは早水川末端のウシロアシ谷分岐から丸瀬山南の水源に上がる川名であろう。

 

 観音寺原に丸瀬橋がある。おそらくこの付近の地籍名は丸瀬の呼んでいると思われる。「観音寺原の村人は、1021m峰を大丸瀬、その北西尾根上の937m独標を小丸瀬と呼んでいる」から、「丸瀬」の地名はこの辺りが発生源と思われる。山ろく地名から山名が決まる。

 シダハゲラの鞍部に上がる谷は、丸瀬橋付近に降りている。丸瀬橋からシダハゲラへ上がる峠道があったのはないか。この峠道にある観音寺原には、米屋山遺跡、今佐屋山遺跡、堀田上遺跡の縄文遺跡がある。

 

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カシミールデータ

オトコヨウゾメ

総沿面距離16.6km
標高差696m

区間沿面距離
スキー場入口
↓ 4.6km
丸瀬山
↓ 4.7km
丸瀬山
↓ 1.3km
ウシロアシ谷
↓ 6.0km
スキー場入口
 

 

丸瀬山
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より