山歩き

大谷…七曲ノ谷…畳山…カタラ谷 2008/9/7
大谷…752P…ナナマガリノ谷…作業道…鉄穴流し跡…畳山…展望地…1033P…猪子山越…カタラ谷…大谷

■畳山(タタミヤマ)1029.0m:広島県山県郡大朝町大字筏津字畳山(点の記) 北広島町

大谷入口
大谷と熊の城山方向 堰堤上手から
ナナマガリノ谷左岸に残る石垣
滝の手前で道は西へ上がる
ナナマガリノ谷を塞ぐ堰堤 上は1033ピーク
作業道
櫛山の峯

伐採されたブナ

畳山西面
畳山西側のブナ
ガスの畳山西側から見た作業道
1033ピークへの尾根上のブナ
2.9mブナ
ガスのドウゲン山(南の阿佐山)
7:40 大谷出発 雨 気温24度
 
ツリフネソウ

8:10 752P
8:35 滝
9:05 岩場
9:35 作業道
11:00 畳山
12:25 1033P
13:35 猪子山越 
13:55 林道
15:00 大谷
 

 大谷を出発、入口に二軒の農家がある。河愛川漁業共同組合の禁漁区の掲示板がある。「大谷川天然魚種保護育成推進委員会」の名で、ヤマメ、ゴギを禁漁としている。谷を少し上がると「砂防指定地」の標柱があり、「渓流名 大谷川」とあった。

 「1819年に書かれた『国郡志御用ニ付下志らべ書出帳・高野村』に注目すべき記録がある。

 ごぎ、枝郷大谷川に多居由候、川魚ひらめの如にて味ひらめには劣り申候

とあり、ゴギ(イワナ)とヒラメ(ヤマメ)を区別し、味まで異なっていることなど指摘しているのに驚く。恐らくゴギという名の淡水魚の記録された最も古い文書と思われる。」(「西中国山地」桑原良敏)。

ヤマシャクヤク

 ツリフネソウのある林道は大きい堰堤の右岸を巻いて上がる。南側に熊の城山へ続く尾根の末端が見える。前方に畳山が覗くがガスで煙る。

 752m標高手前からナナマガリノ谷の左岸を上がる。古い石垣が残り、すぐに堰堤。堰堤を越え、右岸の杉林に入る。右岸に山道が上がっていた。ヤマシャクヤクの赤とコバルトの実があった。この辺りのクマザサはいつも見慣れているものより葉の幅が広い。

 山道を上がると滝の所に出た。道はそこから西側へゆるやかにジグザグに上がっている。馬道であったと思われる。ナナマガリノ谷の西側の尾根を登る。滝の所から少し上がった岩場に出た。

 見通しのある岩場からナナマガリノ谷右岸に作業道が見え、パワーシャベルがあった。少し登って下ると、尾根が削られ、その上をケーブルが通っていた。ケーブルは作業道から畳山西面へ伸びている。足下に堰堤があり、その先にナナマガリノ谷を塞ぐように大堰堤が横切っていた。堰堤から畳山西面は伐採地となっている。

 「昭和37年にこの付近を伐採したため、昭和43年と47年の豪雨のとき崩壊が起こり、…ナナマガリノ谷には砂防堰堤が幾重にも並んでいるが、最近また伐採が始まり、また新しい堰堤が作られた」(「西中国山地」)。

フシグロセンノウ

 削られた尾根は柔らかい土であった。1033ピークがナナマガリノ谷の先に見える。パワーシャベルのある981ピーク下の作業道へ降りた。ここで一休み。

 西側の谷の先に熊の城山から櫛山、牛ヶ首山へ続く尾根が見える。道にブナが伐採され転がっていた。畳山の西にある岩場が見え、そこから下は伐採地であった。

 草薮となった道を上がった。棘に阻まれて西側の尾根に迂回した。2万5千地形図のガレ記号の中に入ると山道が通っていた。鉄穴流しの行われた所である。ブナの大木を過ぎると薮の山頂。西面の展望地に出た。大きいブナが三本あった。

 展望地に出ると、先ほどの作業道から雨交じりの風が吹き上げる。気温19度で少し寒かったが、秋風であった。ガスが降りて展望はない。引き返して、小雨の中を北の尾根に進んだ。

ツリバナ

 北尾根の西面は杉の植林地だが、尾根上には大きいブナが所々残っている。1時間ほどで1033ピーク。ピーク西面は大きいブナの残る所である。前回は北寄りを降りたので、杉林境のピーク西よりを降りてみた。こちらもブナの山であった。大きなのブナを計測すると周囲2.9mであった。

 峠手前の湿地を抜けて猪子山越へ出た。この辺りは薮である。緩やかなカタラ谷水源を降りた。20分ほどで林道に出た。林道は上に続いている。ドウゲンザン方向は相変わらずガスであった。タキガ谷北面は伐採地でる。タキガ谷を渉る木橋の先が林道の分岐となっている。上の作業道はここから上がっているようだ。

 畳山はかつてオヒョウニレの群生する山であったと思っている。畳山北側のタテバシリの谷にはオヒョウがある。(「畳山の植物観察会」「高原の自然館」HP)。1500年代から伐採された山だから、オヒョウが残っているのは厳しいのかもしれない。オヒョウを探して歩いたのだが、このコースでは見つからなかった。

オタカラコウ


地名考

 縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。

 日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。

 東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。

 (以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)

 畳山東側・北側は縄文・弥生の遺跡の多い所である。東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
 また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。

●カタラ谷

 「峠をはさんだ両側でカタラ谷という同じ谷の名が使われているのは興味を引く。猪子山谷には茅野、聖岩、畠、同形、芦谷という名の鈩があり、大谷にも鈩があったのでカタラ谷という名称は、タタラ谷が転訛したものと簡単に考えていたが、これは間違っていた」(「西中国山地」)。

 桑原氏はカタラ谷はタタラの転訛ではないとされている。近辺の同じ地名が異なる河川にある場合、アイヌ語では「東の」「西の」という呼び方をする。

 sum-kata スム・カタ 西の
 koy-kata コイ・カタ 東の

○カタラ谷(西側)
 sum-kata-at-kar-us-nay
 スム・カタ・アッ・カラ・ウシ・ナイ
 西の・ニレ皮を・取る・いつもする・川

○カタラ谷(東側)
 koy-kata-at-kar-us-nay
 コイ・カタ・アッ・カラ・ウシ・ナイ
 東の・ニレ皮を・取る・いつもする・川

●ナナマガリノ谷
 pon-nup-oma-at-kar-us-nay
 ポン・ヌプ・オマ・アッ・カル・ウシ・ナイ
 小・野・にある・オヒョウニレの皮を・取る・いつもする・川

●畳山(タタミヤマ)
 at-sat-tapkopi
 アッ・サッ・タプコピ  
 ニレ皮を・干す・タンコブ山
(筏津川の山・畳山の所在地は筏津)

 北海道沙流郡元神部川にアツタプコプがある。
 at-tapkop アツ・タプコプ オヒョウニレの・タンコブ山

●筏津川(イカダズガワ)
 ika-us-at-sat-nay
 イカ・ウシ・アッ・サッ・ナイ
 越える・いつもする・ニレ皮を・干す・川

●筏津川+畳山
 ika-us-at-sat-nay-tapkopi
 イカ・ウシ・アッ・サッ・ナイ・タプコピ
 越える・いつもする・ニレ皮を・干す・川の・タンコブ山

 畳山の所在地は筏津であるが、畳山は「筏津川のタンコブ山」と呼ばれていたと思われる。

 at-sat-tapkopi →

 ta-ta-pi の転訛。

●タテバシリ(畳山北)
 u-at-te-a-pa-sir
 ウ・アッ・テ・ア・パ・シリ
 お互いを・群がら・せる・我ら・見つけた・山

●大谷川(筏津川上流)
 o-atni-us-nay
 オ・アッニ・ウシ・ナイ
 川尻・オヒョウニレ・群生する・川

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カシミールデータ

トリカブト

総沿面距離8.5km
標高差395m

区間沿面距離
大谷
↓ 3.5km
畳山
↓ 2.4km
猪子山越
↓ 2.6km
大谷
 

 

作業道から
                           樋佐毛山
                           櫛山
                           熊の城山   椎谷山                        牛ヶ首山
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』25000」より