7:10 長者原林道出発 雨 気温22度
ヤマジノホトトギス |
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7:45 押ヶ峠
10:35 1124P
12:15 御境
13:15 小郷山
14:45 掘割
15:50 ヨソウ谷林道終点
16:25 判城橋
16:50 長者原林道
長者原林道の分岐を出発、国道を100mほど歩くと十方林道の入口であるが、工事のため通行止めとなっている。「これから先は、緑資源機構が施工する大朝・鹿野線第8工区開設区間」と書いてあった。「緑資源機構」と言えば「天下り談合」。細見谷を貫く大規模林道は、「官製談合」の結果なのだろうか。
十方林道を進むと、山の斜面は大きく削られ、その先にパワーシャベルが2台止まっていた。ヤマダチ谷の斜面はコンクリートの壁が作られていた。そこから先はまだ昔の林道のままだった。ハクウンボクが実を付けている。ヤマジノホトトギス、背丈のオオウバユリは花芽が出ていた。
ハクウンボク |
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クマノミズキ |
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30分ほどで押ヶ峠手前の林道の分岐に到着、雨がひどく降り始め、稲妻が光る。草の茂る林道を進む。クマノミズキの花が咲いている。林道の横に雨宿り出来そうな小屋があった。ほどなく林道分岐、左側の林道は、おそらく1071ピークへ上がる道のようだ。分岐には、イタドリ、ヒヨドリバナが咲いていた。ヤマダチ谷の水源に上がる林道を進むと、少し上がった所で終点。林道終点から右岸に踏み跡があるが、途中で見失った。
ヤマダチ谷を渡り、左岸のヤブ尾根をあがった。ヤブを掻き分けてようやく上の林道に出た。林道からの見通しは良いがガスで煙っている。林道から尾根に取り付いた。林道から上はスギ林で、林床はササだけなので歩きやすい。県境尾根に入るとササが深くなる。県境の北側の1124ピークへ寄ってみた。
アカマツの山頂のササに混じってススキが生えている。アセビに丸い果実が付いていた。ガスて展望はまったくない。リョウブが咲いている。山頂付近のササが開花していた。今年は多くの山でササの花を見ている。県境尾根に戻り、林道へ下った。ところどころササの開花を見た。ササからヒノキ林に変わると、その下が林道だった。
オオバギボウシ、ウド、ヒヨドリバナの林道を下ると、サッカー場のようなアスファルトの広場に出た。伐採した樹木の集積場だったのだろうか。メスグロヒョウモンがオカトラノオに留まっていた。白花のウツボグサ、ムラサキシキブ、オオウバユリ、チダケサシがピンクの花をつけている。オタカラコウが一本だけ咲いていた。
国道を上がると、ほどなくガスで煙る御境の峠。峠にノリウツギが咲いている。草の茂る登山道を上がると、キクバヤマボクチが一本だけあった。この辺りのササも開花していた。この登山道は高圧線の鉄塔と鉄塔を結ぶ道のようだ。ニシノヤマタイミンガサの花が咲き、ハスノハイチゴが多い。1時間ほどで登山道直下に着いたが、道は北側の鉄塔に降りている。登山道からヤブを登る目印があるが、その取り付きは大分北へ回り込んでいる。
ヤブを漕いで御境から1時間ほどで小郷山に到着。ガスで全く展望はない。山頂のヤマボウシが実を付けていた。県境尾根を下った。尾根上には目印がある。1059ピークに広島山稜会の分水嶺の標識があった。さらに下ると、オオウラジロノキの小さな青い実がたくさん落ちていた。実のそばにある大木がオオウラジロノキのようだった。ツタウルシが青い実を付けている。
小郷山から1時間半ほどで掘割に出た。昔、ニソウ谷、掘割、ミサカ谷を結ぶ馬道があったと言う。掘割からミサカ谷への道は茂っていて跡形もない。ニソウ谷林道はすぐ北で終点、南側は峠を越えるとツリハシ林道に出て、八郎川の千両橋に出る。
東のニソウ谷の水源を渡り、尾根を登り、ヨソウ谷へ下った。ヨソウ谷へ降りる小谷を下って、ヨソウ谷林道の終点へ出た。ニソウ谷を下って、ヨソウ谷分岐の林道に出る方が楽である。林道の草が刈ってあった。下っていくと滝があり、紅葉のきれいなところである。30分ほどで鎖止めのある林道の入口に到着。バンジョウ川と御境から降りる小谷の合流点に判城橋が架かっている。
国道を進むとコウサギノ谷が降りている。右岸に林道が上がっている。道沿いに大きい葉のフキが多い。十方林道が上がるヤマダチ谷に架かる橋はヤマメ橋と書いてある。そこから峠を登り、十方林道の入口を過ぎると長者原林道の入口である。
■地名考
●五里山(ゴリヤマ)とヤマダチ谷
御境から東の京ツカ山へ続く、長い県境尾根の中ほどに1124ピークと1064ピークがある。2万5千地形図では、その二つのピークの辺りを、文字の間隔をあけて五里山と記している。国土地理院のウオッちずの地名検索では「ゴリサン」となっているが、「ゴリヤマ」が正しい。
山名は、その山の谷名や山麓地名から決まることが多い。「西中国山地」の目次にある山名の内、三分の一が谷名と同じ地名である。周辺の山では、トイシ川と砥石川山、広見川と広見山、コゴウ谷と小郷山、大神ケエキと大神ヶ岳、タテイワ谷と立岩山などがある。
「五里山の初見は陸地測量部発行の『輯製二十万分の一図・広島』(明治二十一年)であろう。この地図に記入してある五里山は現在の地図の地点より更に西南に記されている」(「西中国山地」桑原良敏)。
陸地測量部発行の地図が五里山としたのは、ヤマダチ谷水源の西にある1071ピークのことであろうか。このピークも五里山であった可能性がある。
ヤマダチ谷の水源に五里山があるのは偶然でなく、山麓地名のヤマダチ谷から五里山の地名が形成されたのであろう。
●五里ナカエ
<吉和村大向と匹見町野入を結ぶ石州街道は、匹見町側、吉和村側ともに昔から五里ナカエ≠ニ呼ばれており、この呼称は現在も使われている。「ナカア・ナカエ・ナカラ」は「…の間」を意味し、五里ナカエは五里の間、つまり石州街道自体の長さを表わしている>(「西中国山地」桑原良敏)。
「五里ナカエが県境を越す峠の名は、故甲佐直一氏より初めてオサカエという呼称を教えてもらったが、保矢ケ原では現在でもオサカエと呼んでいる人が多い。吉和側では、この峠が村里より遠く離れているため峠の名を知っている人に会わなかった。『佐伯郡廿ケ村郷邑記』(1806年)には杖立御境とあり、『吉和村絵図』(江戸末期)にも杖立御境と記されている」(「西中国山地」)。
「ゴリナカエ」「ツエタテオサカエ」の「ナカエ」「オサカエ」は、同じ県境の峠付近の地名を表している。
ヤマダチ谷から国道488号線を上がると判城橋があるが、その少し先の国道のスギ林の中に古い墓が四基残っている。墓に「荘室妙巌信士」「寛政三亥年」(1791年)と彫られた文字が見えるが、200年余り前の墓で、この辺りには、かなり古くから人々が暮らしていたと思われる。
判城橋北の墓 2005/10/30 |
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カシミールデータ
総沿面距離12.8km
標高差305m
ムラサキシキブ |
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区間沿面距離
長者原林道入口
↓ 3.9km
1124P
↓ 2.2km
御境
↓ 1.3km
小郷山
↓ 1.3km
掘割
↓ 4.1km
長者原林道入口
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