山歩き

小原…シモトチヤマ谷…鷹ノ巣山…猪股峠 2007/4/1
小原…大井…石堂…布原…シモトチヤマ谷…猪股林道…栃山…鷹ノ巣山…猪股山…757P…猪股峠…小原

■栃山(トチヤマ)989m:広島県山県郡筒賀村大字上筒賀字鷹ノ巣山(点の記) (安芸太田町)
■鷹ノ巣山(タカノスヤマ)980m:広島県山県郡筒賀村大字上筒賀 (安芸太田町)
■猪股山(イノマタヤマ)875m:広島県山県郡筒賀村大字上筒賀字猪股山(点の記) (安芸太田町)

小原大橋の釣り人
布原橋(古名はノノハラ)
道路下の釣り人
シモトチヤマ谷入口
栃山トンネル 堰堤から
シモトチヤマ谷

一つ目のコンクリート堰堤

石堂山? 二つ目の堰堤上から
シモトチヤマ谷上流のトチノキ
ササ原とヒノキ林の栃山山頂手前
鷹ノ巣山
  
尾根道のブナ
クリノキの爪痕 鷹ノ巣山
ブナの尾根を進む
 
鷹ノ巣山 猪股山西から
猪股峠
猪股川
7:35 小原出発 曇り後雨 気温7度 
 
 

8:30 シモトチヤマ谷
11:05 猪股林道
12:00 栃山
12:30 鷹ノ巣山
13:25 猪股山
13:55 757ピーク
14:30 猪股峠
15:25 小原

高速道の巣

 小原大橋から橋下をのぞくと、釣り人が川虫を取っていた。筒賀川上流の峠の手前でゴギを釣ったことがると言う。186号線を上がった。先週はなかった、レンギョウがいっせいに咲いていた。高速道の橋下にスズメバチの大きな巣がぶら下がっていた。大井付近の釣り人にも聞いてみたが、ゴギは上流の小谷の入口で釣ったことがあるとのことだった。

 先週、聞いた釣り人もそうだったが、筒賀川でゴギが居るのは上流付近のようだ。布原へ旧道が降りているが、そこの橋は「布原橋」、一つ上の旧道に架かる橋は「市間橋」となっている。車道の崖下に釣り人が入っている。その先が布原トンネル。次の栃山トンネルの入口に、カミトチヤマ谷が降りている。

 栃山トンネル入口から、カミトチヤマ谷左岸に降りる道がある。その先は堰堤で、腐れかかった木の階段を上がって堰堤の先に出た。少し進むと、崩れた道の左岸にロープが張ってある。さらに上がると、コンクリート堰堤が谷を塞ぐ。その堰堤に右岸から林道が降りていた。林道の先に栃山らしき山が見える。堰堤の上は砂礫で埋まっていた。
 
 林道を登ると、さらに上のコンクリート堰堤に出た。林道は右岸の山の上へ向って登っていた。堰堤に上がってみた。谷下先に石堂山辺りが見える。堰堤に水が溜まっていたが、魚影はなかった。左岸に山道が上がっているが、潅木の道である。潅木道を上がり、谷のカープを越えると、緩やかな流れとなる。水の少ないスギ林を登る。

 舗装された林道に出た。猪股峠から上がる猪股林道のようだ。林道から谷を少し上がると、涸れ沢となる。笹原に変わり、ヒノキ林の急坂を登り山頂に出た。林で展望はない。

二等三角点

 2万5千地形図では鷹ノ巣山となっているが栃山である。二等三角点の少し大きめの石柱がある。「点の記」の所在地は、「筒賀村大字上筒賀字鷹ノ巣山」となっている。

 栃山から南へ進み、鷹ノ巣山へ向う。アセビの白い花が咲いている。ヒノキ林の尾根に大きなブナが残っていた。鷹ノ巣山のクリノキにクマ棚があった。

 鷹ノ巣山から猪股へ進む尾根は若いブナが多い。昔はこの辺りもブナの原生林であったのだろうか。鷹ノ巣山から1時間ほどで猪股山。四等三角点で、所在地は「大字上筒賀字猪股山」。

ヒサカキ

 猪股山を下ると、先に運動広場が見えてくる。757ピークを過ぎて、ツガの大木がある尾根を下ると薮の道となる。運動広場の車道に出た。車道を下ると猪股峠の北に出る。猪股川に沿う県道40号を下った。猪股川上流の谷はコンクリートで固められている。小雨の中、1時間ほどで小原へ下った。


地名考

 山口県の「レッドデータブックやまぐち」に、ゴギについて以下がある。

 科名:サケ科・和名 ゴギ
 学名:Salvelinus leucomaenis imbrius
     Jordan et McGregor
 山口県カテゴリー:絶滅危惧IB類
 環境省カテゴリー:地域個体群(西中国地方のイワナ[ゴギ])

 分布:中国地方の一部にのみ分布する。山陰では島根県の斐伊川から高津川まで、山陽では岡山県の吉井川から広島県の太田川を経て、山口県内の錦川までが自然分布としての範囲である。錦川水系上流域では常国、深谷、大野、小西、秘密尾および米山に生息しているが、小西は森林伐採等の環境破壊による減少が目立つ。山口県内の佐波川でもゴギが採集できるが、これは山陰(高津川)から1957年頃に移入されたものが繁殖を続けているものと考えられる。

 ゴギが学会に紹介されたのは85年前であった。

 「ゴギは、大正11年(1922)に、Jordan が島根県浜田付近の渓流(おそらく波佐川と考えられる)で未成魚1個体を採集し、大正14年に Jordan と McGregor の名ではじめて学会に紹介したものである。ゴギという和名はこの地方の俗名をとったものである」(『戸河内町史』)。

 広島県におけるゴギの初見は、1819年のようだ。

 「太田川水系におけるゴギの古い記録をみると、『芸藩通志59』に『鱒(マス)、石鮒(イシフナ)、呉岐(ゴギ)、立貝(タチガヒ)並に川小田村等の大川にあり』と記されており、現在の山県郡芸北町川小田付近には、文政年間(1818〜1830年)初期の頃ゴギが生息していたことになる。しかし、太田川水系における現在のゴギの分布や移入のことを考えあわせると、川小田におけるゴギの生息は疑わしい。太田川水系に生息している現在のゴギは、明治年間以後に、人為的に移入されたものが自然増殖したものと考えるのが妥当と思われる」(『戸河内町史』)。

 『戸河内町史』では、川小田のゴギの生息は疑わしいとしているが、『国郡志御用に付下調書出帳・高野村』(1819年)に、「ごぎ 枝郷大谷川に多居申候 川魚ひらめの如にて味ひらめには劣り申候」とある。高野村は太田川水源にあるが、枝郷の大谷川は江の川水系である。

 これら三ヶ所の古いゴギの記録の地域、波佐川(1922年)、芸北・川小田(1819年)、大谷川(1819年)は、僅か20kmの間にあり、偶然とは思われないほど近い。

 三次藩(1632〜1720年)の文献(江の川水系)にも「呉岐」があるようなので、「西中国山地」では、ゴギの名称はかなり古くから呼ばれていたと思われる。

 アマゴの降海型のサツキマスは、昭和初期に三段峡入口まで上っていた。

 「サツキマスは、昭和10年代後半までは戸河内町柴木の三段峡入口付近までのぼってきており、昭和18年(1943)には三段峡入口で1個体を確認している。また『芸藩通志59』に記されている現在の芸北町川小田付近にみられた鱒はこのサツキマスとも考えられ、文政年間の頃には、川小田付近までのぼっていたものと思われる」(『戸河内町史』)。

 三段峡の父、熊南峰の元で作成された『名勝天然記念物三段峡の概説』(戸河内村役場 大正13年頃)に、小板川と八幡川が合流する所にある「出合滝」の説明の項に以下がある。

 「小板川ノ端末にアリテ其の高サ約八十尺幅約十五尺三段ト成りて落下シ直ニ八幡川ニ注ギテ水勢ヲ争ヒ和シテ南流ス、風光明快ニシテ盛夏ノ好納涼地トス、此付近ノ深潭ニハ鯉甚ダ多ク何レモ巨大ニシテ長大ナル『ひらべ』ト共ニ其名高し」

 「巨大ニシテ長大ナル『ひらべ』」とは、アマゴの降海型のサツキマスではないだろうか。そうすると、サツキマスは三段峡の奥の餅ノ木の先まで上っていたことになる。

 サツキマスが上ることの出来る川は、ゴギについても同じことが言える。太田川水系の川小田のゴギはどこからやってきたのだろうか。

 江戸期に山陰から移植されていた。ゴギは元々瀬戸内から上ってきた陸封型のイワナだった。河川争奪の結果、中国山地を越えて山陽側へやってきたなどが考えられる。

ハシゴのリュウズ上 2005/6/12
千両山ナメラ谷 2005/10/30


 私が山歩きをしていて、意外な所にゴギが生息しており、驚いたことがある。那須のウレオレ谷水源の三ツ滝の上の950m付近、立岩ダム左岸のニノワラ谷ハシゴのリュウズの上の760m付近、立岩ダム右岸の境谷の上の750m付近、吉和の千両山東のナメラ谷の960m付近、瀬戸谷上部の大ビラメノ滝の760m付近で30cmのゴギを釣ったことなど。

 これらのゴギが移植でなければ、河川争奪の結果でなく、元々居た陸封型のゴギと言うことになる。

 中世の温暖期は、740年頃から始まり、850年頃まで急激に気温が上昇したと言う(「国際日本文化研究センター教授・安田喜憲氏」)。この温暖期の100年間に、年平均気温は2℃上昇したと言うから、地域によっては、もっと大きな温度上昇があったと思われる。

 「地球温暖化が日本に与える影響について」(平成17年1月27日 独立行政法人国立環境研究所)によると、「2071〜2100年で平均した日本の夏(6・7・8月)の日平均気温は1971〜2000年の平均に比較してシナリオB1で3.0℃、シナリオA1Bで4.2℃上昇」すると言う。

 「シナリオA1B」は、将来の世界が経済重視で国際化が進むと仮定したシナリオ(2100年の二酸化炭素濃度が720ppm)。
 「シナリオB1」は、環境重視で国際化が進むと仮定したシナリオ(2100年の二酸化炭素濃度が550ppm)。

 この中世期の温度上昇の時期、「西中国山地」のゴギは、絶滅はしなかったが、壊滅的な打撃を受けたのではないだろうか。現代はそれが徐々に回復しかけてきたが、開発によって減少に転じ、新たな温暖化によって、再び絶滅の危機が迫っているとも思われる。

 山田秀三氏は『アイヌ語地名の研究1』で、「アイヌ地名・アイヌ語の古さ」を論じておられる。

 それによると、「東北地方のアイヌ語地名は少なくとも七、八世紀迄は遡れる。…北海道に残っていたアイヌ語地名群は、東北地方よりも寧ろ古い型であったらしい」とある。

 中世の温暖期、「西中国山地」のイワナは潰滅的な打撃を受けた。アイヌの人々は、重要な食料源の一つであるイワナが減少したことなどによって、「西中国山地」を突然去り、東北まで後退したのではないだろうか。東北地方のアイヌ語の古さと、中世の温暖期が重なってくる。


■トチヤマ谷

 以下に、『両筒賀村山改め帳』『中筒賀村御建山野山腰林帳』から栃山周辺の樹木の種類と、「栩」「とち」を含む山を示した。

 山名としての「とち山」は、「とち山東ノ平」と「栩山」だけである。これは「栃山」のことであろう。

 栃山は、『両筒賀村山改め帳』『中筒賀村御建山野山腰林帳』の両方ともに、トチノキはないようだ。栃山の南の鷹ノ巣山も、樹木の項にトチノキはない。

 樹木の項にトチノキはないが、「此外百姓銘々支配之とち御座候」として、「とち」「栩」がある。これは山の持ち主とは別に、トチノキ一本一本について、誰々のトチノキとして、持ち主があったようだ。しかし栃山には、「此外百姓銘々支配之とち御座候」もない。

 栃山やシモトチヤマ谷、カミトチヤマ谷をトチノキ由来の地名とすると、1670年以前にトチノキがあったとするしかない。

 「西中国山地」で「トチ」を含む地名は、すべて川の水源にある。この近辺では、細見谷水源のトチ谷(ケンノジ谷)、旧羅漢山西の三本栃(ハゲノ谷)がある。アイヌ語では以下の意がある。


 布原(ヌノハラ)は、寛永15年(1638)の「上筒賀地詰帳」では「野々原」とあり、「ノノハラ」と呼んでいたようだ。

 nu-nay-par
 ヌ・ナイ・パル
 豊漁・川の・口


○上トチヤマ谷
 penke-to-char-oma-nay
 ペンケ・ト・チャロ・オマ・ナイ
 川上の・沼・口・にある・川

○下トチヤマ谷
 panke-to-char-oma-nay
 パンケ・ト・チャロ・オマ・ナイ
 川下の・沼・口・にある・川


■『両筒賀村山改め帳』(寛文10年・1670年)から

●高のす 御立山 (栃山南の鷹ノ巣山)
 杉梅松少 浅木沢山

●とち山東ノ平 野山 (栃山)
 松少栗槙ほうそ浅木、炭材木山

■『中筒賀村御建山野山腰林帳』(享保元年・1716年)から

●栩山(栃山)
 立木杉樅栂栗浅木

●市間山
 立木樅栂杉松浅木
 此外百姓銘々支配之とち御座候

●鍛冶屋山(井仁)
 立木樅栂松栗
 此外百姓支配之栩御座候

●天上山
 立木松栗浅木 笹萱
 此外百姓支配之栩御座候

●たかのす山(鷹ノ巣山)
 立木杉樅栂松栗浅木 笹萱
 此外庄左衛門・勘左衛門支配之栩御座候

●いの又山(猪股山)
 立木杉樅栂松浅木
 此外百姓銘々支配之とち御座候

●洞谷山(筒賀川左岸)
 立木杉松栗浅木
 此外百姓支配之とち御座候

●仕形か谷山(筒賀川左岸)
 立木樅栂松浅木
 此外百姓銘々支配之とち御座候

●石とう山(筒賀川左岸)
 立木樅栂松浅木
 此外百姓銘々支配之栩御座候

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カシミールデータ
総沿面距離12.4km
標高差657m

区間沿面距離
小原
↓ 3.1km
シモトチヤマ谷
↓ 1.8km
栃山
↓ 3.5km
猪股峠
↓ 4.0km
小原
 

シモトチヤマ谷水源
登路(青線は磁北線 薄茶は900m超 茶は1000m超)