山歩き

ツヅラガ谷…カレキガ丘…西大峯…大峯山 2007/3/11
大峯山登山口…上川上…ツヅラガ谷…カレキガ丘…西大峯…西のた…大峯山…エンノタキ…大峯山登山道…登山口

■大峯山(オオミネヤマ)1039.8m:広島県佐伯郡佐伯町玖島字大峰山の内一ノ尾山(点の記) (廿日市市)

大峯山登山口の案内板
建設中のログハウス
万古渓案内板
石垣のツヅラガ谷

石原 下の先端部 ここから100m上までつづく

石原の上の方
カレキガ丘手前の大岩
特徴のないカレキガ丘
西大峯山頂
 西大峯東のヨボシ岩?
笠岩分岐
大岩手前のクマ棚
峯太郎ブナ
大峯山南面
ハシゴの掛かる山頂
西大峯
山頂東端の祠
エンノタキ? 風穴のプレートあり
岩崖の張り出るエンノタキ
7:30 大峯山登山口出発 雪後晴れ 気温-1度
 
 

7:50 ツヅラガ谷
8:50 ゴーロ(石原)
9:15 カレキガ丘
9:45 西大峯(ヨボシ岩)
10:15 西のた
10:40 963P
11:00 峯太郎ブナ
11:15 大峯山
11:40 エンノタキ
12:45 登山口


 フタツバシとコマツバラノ谷の間にある、上川上の大峯山登山口を出発。気温マイナス1度で季節外れの雪となった。登山口駐車場の隣では、真新しいログハウスが建設中である。車道を西へ上がると、上川上の集落に万古渓案内図の看板があり、そこから西の谷を進むと、ほどなくツヅラガ谷の入口である。右岸に広場があり、左岸に車道があるが、すぐ先で終わる。右手に大きなイノシシワナの金網檻があった。

 ツヅラガ谷は、アイヌ語で下記の意がある。

 tu-utur-ka-oma-nay
 ツ・ウツル・カ・オマ・ナイ
 峯・の間・の上・にある・川

 「ツヅラ」「カズラ」を含む地名は、「西中国山地」に10余りある。この近辺では、市間山、女鹿平山のツヅラ谷がある。

 女鹿平山から大峯山にかけて、かつて鹿が多かったようである。

 「『吉和村御建野山腰林帳』(1725年)に女鹿平山とある…メガは鹿または牝鹿を表わす方言で、ヒラは獣を取る装置、または山の側面や斜面を表わす地形方言…鹿を取る装置がしかけてある山、あるいは鹿が多く住んでいる場所という意になる。いずれにしろこの場所に鹿が多かったのは事実であろう」(「西中国山地」桑原良敏)。

環境庁全国メッシュ図の広島県部分

 環境庁の「ニホンジカの全国分布メッシュ図」(1979年)では吉和から大峯山にかけて、絶滅か生息情報のない地域になっている。広島県のデータでは、宮島を除いて白木山系を中心に2000頭余りが生息しているようだ。大峯山や女鹿平山周辺にいたシカは捕獲し尽くされか、感染病などで絶滅したのだろう。

 江戸時代、鹿は有害獣で、この近辺にたくさん居たようだ。

 広島藩の「雉子鉄砲札運上」「鹿鉄砲札運上」は猟銃の鑑札に対する税で、元和6年(1620年)から始まり、一挺につきそれぞれ、五匁、十四匁を課した。

 寛政6年(1794年)の大峯山北の多田村の鉄砲数は猟師鉄炮7(専業)、猪鹿威鉄炮34で計41挺。

 天保8年(1837年)、猪鹿の被害を防ぐため3150人の農民を動員し、1053個の落し穴を掘ったという(「多田村猪鹿防方御願」)。

 多田村の割庄屋小田新七ほか4名は文久元年(1861年)に猪、鹿の被害を防ぐため「威筒御鉄砲三拾挺」の貸し下げを願い出ている。

湯来地方の鉄炮所有数と鉄炮札
村名

鉄炮数

鉄炮札 年度
猟師筒 威筒 札数 札銀
白砂 5 21 26 鹿鉄炮1
雉鉄炮4
14匁
20匁
寛政4
1792
葛原 2 2 4 雉鉄炮2 10 宝暦元
1751
上伏谷 3 16 19 雉鉄炮3 15 文政2
1819
下伏谷 2 9 11 鹿鉄炮1
雉鉄炮1
14
5
宝暦12
1762
多田 7 34 41 鉄炮7 30 寛政6
1794
菅沢 - - - - - -
和田 5 22 27 鹿鉄炮1
雉鉄炮4
14
20
宝暦元
1751
麦谷 5 22 27 鹿鉄炮2
雉鉄炮3
28
15
文化10
1813
2 19 21 鹿鉄炮1
雉鉄炮1
14
5
宝暦12
1762
合計 31 145 176 鹿鉄炮6
雉鉄炮18
鉄炮7
84
90
30
 
 

 江戸末期まで、大峯山から湯来町にかけて、相当数の鹿が生息していたようである。「西中国山地」の「ツヅラ」「カズラ」地名の分布を見ると、鹿はどこにでも居たわけでなく、恐羅漢山、広見山、女鹿平山、市間山、大峯山、燕岳、安蔵寺山、鈴ノ大谷山、莇ヶ岳に限られている。

 吉和の女鹿平山南の半坂遺跡は、縄文早期から後期にかけての遺跡で、落し罠の土壙が発掘されている。鹿やイノシシを捕る落とし穴と考えられている。縄文の民から江戸の村人まで、鹿を追い続けてきた歴史があった。「ツヅラ」と呼ぶ地名は、もしかしたら、縄文の時代から長く受け継がれてきた地名かもしれない。

 ツヅラガ谷を通り、西ノタを越えると、ヒサキ谷だが、鹿が交尾した谷である。

 ヒサキ谷
 esanke-nay
 エサンケ・ナイ
 山鼻の・沢

 esanke → pesa-ki の転訛。

 ツヅラガ谷の山道に入ると、スギ林の両岸に石垣がある。谷に沿って水田があったようだ。石垣は大分奥までつづいている。山道は両岸にあるが、登山道は右岸にある。しばらく谷沿いの山道を登ると、谷の最初の分岐に出る。谷を渉ると、道は二つの谷の間を登る。ところどころテープが巻いてある。炭焼窯跡の横を通り、西のたへ上がるツツラガ谷の右岸に出ると、ゴーロ帯の石原になっていた。

 ゴーロは20〜30mほどの幅で、100mほど上へつづく。ツヅラガ谷のこの辺りは、急な崖になっており、おそらく、ここを鹿が登って、西のたを越えていたのだろう。

 西のたへ上がる登山道と分かれて、ゴーロの上の末端部からカレキガ丘へ登った。ゴーロの上の末端からカレキガ丘の間にも所々、山の斜面に石がある。カレキガ丘のピークの手前にも大岩の露出した所があった。

 雪を被ったササ薮を登り、カレキガ丘のピークに出たが、目立つものはなにもない。カレキガ丘の西側のピークへ回ってみたが、特徴的なものはなかった。

 カレキガ丘については、「西中国山地」に説明がないが、おそらく、カレキガ丘の下にあるゴーロのことであろう。カレキガ丘はアイヌ語で下記の意がある。

 ツヅラガ谷
 tu-utur-ka-oma-nay
 ツ・ウツル・カ・オマ・ナイ
 峯・の間・の上・にある・川

 カレキガ丘
 sak-ru-kus-kamuy-ukaw-nay
 サク・ル・クシ・カムイ・ウカウ・ナイ
 夏・道・通る・神・石重なる・川

 ツヅラガ谷+カレキガ丘
 tu-utur-sak-ru-kus-kamuy-ukaw-nay
 ツ・ウツル・サク・クシ・カムイ・ウカウ・ナイ
 峯・の間の・夏・道・通る・神・石重なる・川

 カレキガ丘はゴーロ帯のことである。

 カレキガ丘と似ている地形が三段峡の「五郎堰」(ゴロウゼキ)である。古名はゴロゼキと呼ぶ。五郎堰は横川川にある小滝とされているが、おそらく間違いである。五郎堰のプレートのある辺りから100mほどの間の遊歩道はガレ場になって、斜面を落ちてきた岩がゴロゴロしている所である。

 五郎堰(ゴロウゼキ) 古名は、ゴロゼキ
 kere-us-nisey-ke 
 ケレ・ウシ・ニセイ・ケ 
 削られる・いつもそうである・崖・の所

 『北海道蝦夷語地名解』(明治24年・永田方正)に以下があり、「有珠ノ噴火山ノ名ナリ」とある。

 ye-kere-use-guru
 イエ・ケレ・ウセ・グル
 軽石ヲ削り出ス神

三段峡 五郎堰付近のガレ場

 カレキガ丘から西のピークを通り、西大峯へ登った。スギ林を通り、登山道の尾根に出た。山頂手前に岩がある。「西大峯山頂」の新しい道標が立っている。山頂でよく見かける「美美」さんの503回目の新しい札が掛かっていた。山頂から西へ少し下ると、北側に大岩がある。山頂付近にも岩があるが、どちらがヨボシ岩だろうか。恐羅漢山北にヨボシ山がある。

 ヨボシ岩
 nupuri-ohonkes-pa
 ヌプリ・オホンケシ・パ
 山の・ふもと・の上手

 ツエゲキ tuye-ke-ekimne-an-pet
 ツィエ・ケ・エキムネ・アン・ペッ
 崩れて・いる・山に・ある・川

 ヨボシ岩+ツエゲキ
 nupuri-ohonkes-pa-tuye-ke-ekimne-an-pet
 ヌプリ・オホンケシ・パ・ツィエ・ケ・エキムネ・アン・ペッ
 山の・ふもと・の上手の・崩れて・いる・山に・ある・川

 ヨボシ岩は山頂東側の小岩の方だろうか。

 雪の北風は寒い。早々に大峯へ向った。尾根道から西ノタへ降りる所は迷いやすい。視界がないと特にそうである。倒木で道がわかりにくくなっている。西ノタを上がると、笠岩の分岐。50mほど下ると笠岩に出るが、あいにくの天気なのでパス。

 963ピークを通り、大岩まで来ると、クリノキにクマ棚が残っていた。爪痕も僅かにある。周囲に枝が散乱していた。大岩からほどなく、峯太郎ブナ。このあたりでは突出して大きい。幹周り4mと言う。

 そこからほどなく大峯山。不思議と雪は止み、日が差してきた。霞んではいるが、瀬戸内海を一望できる。山頂の岩場へ上がるハシゴが二つ取り付けられている。以前はなかったものである。

 東へ回り、エンノタキへ寄ってみた。東側は山頂直下に祠があり、休み場に周辺の概念図が新しく設置されていた。「廻り縁」(まわりえん)の道標に従って降りてみると、今にも落ちそうな逆三角形の岩があった。そこは「風穴」と書いてあるが、エンノタキのようであった。下は崖になっている。

 タキと言うと、「滝」「懸崖」(タキ)を思い浮かべるが、アイヌ語では、wakka-ta-ki ワッカタキ で、「水・汲み・する」の意である。エンノタキはアイヌ語で以下の意がある。

 エンノタキ
 e-en-ane-tapkop
 エ・エン・アネ・タプコプ
 頭が・尖っている・細い・タンコブ山

 エンノタキから下を覗くと、小谷がエンノタキに向って上がっている。どこの谷かよく分からなかったが、エンノタキに上がる急な崖の谷と思われる。悪・川と言うのは、歩きにくい谷の意があると思われる。

 大峯山は、二等三角点で明治26年の選点、アイヌ語で下記の意がある。

○オオミネヤマ
 horka-ni-mu-oro-wen-tapkop-nay
 ホロカ・ニ・ム・オロ・ウェン・タプコプ・ナイ
 後戻りする・樹木・繁茂する・その中・悪い・小山・川

○冠嶽(カムロダキ) 1715年
 horka-ni-mu-oro-tapkop
 ホロカ・ニ・ム・オロ・タプコプ
 後戻りする・樹木・繁茂する・所の・小山
       
○天狗城戸(大峯山古名・1825年)
 e-tu-un-kus-pet-kito-us-nupuri
 エ・ト・ウン・クシ・ペッ・キト・ウシ・ヌプリ
 頭が・山に・入り込んでいる・川・向こうの・ギョウジャニンニク・群生する・山

 引き返して、大峯山の登山道を下った。しばらく下るとヒノキ林に変わる。40分ほどで登山口に着いた。下から大峯山を見ると、朝の天気が嘘のように晴れ上がり、大峯山とエンノタキがくっきりと青空に浮かんでいた。

 帰りに佐伯・歴史民族資料館に寄ってみた。昭和16年頃、楢原から見た大峯山の古い写真があった。水田とわらぶき屋根の向こうに大峯山が写っていた。天平年間の古図の写しに、のうが高原の山は「濃毛山」とある。縄文時代の石鏃(矢じり)、石鉾なども展示してある。古くから人々が住みついたところである。

中国自然歩道入口から見た大峯山

昭和16年ごろの大峯山 楢原から
縄文の石鉾 浅原から出土


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カシミールデータ
総沿面距離7.7km
標高差536m

区間沿面距離
大峯山登山口
↓ 2.7km
カレキガ丘
↓ 2.7km
大峯山
↓ 2.3km
大峯山登山口

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峯太郎ブナ 周囲4m
カシアゲ峠の先に東郷山、阿弥陀山 エンノタキ付近から
登路(青線は磁北線 薄茶は900m超 茶は1000m超)