9:35 柴木出発 晴れ 気温7度
11:00 黒淵
11:55 ミズナシ川
13:20 蔵座林道
14:45 向山
15:10 バア堀
16:45 導水トンネル
17:35 柴木
柴木川ダムの先の駐車場を出発。柴木川左岸を進むと、すぐに柴木川第一発電所(1957年完成)がある。下流にある柴木川ダムに溜められた水は下流の柴木川第二発電所(1955年完成)に送られている。三段峡の奥にサバノ頭が見える。
スギ林を通って渓谷入口に入ると長淵だが、砂がたまり長い深い淵には見えない。雪の遊歩道に足跡がある。姉妹滝は、赤岩を伝う水流がブルーの淵に落ちている。この辺りを落ちる谷はヤブガサコの谷だが、大正期の三段峡の案内図には龍谷川とある。
姉妹滝の先が龍の口、川床の岩盤が深く、長く削られて蛇行し、その落口が姉妹滝の手前の淵である。龍の口の上流は岩盤がなくなり、瀬になっている。その辺りの右岸に下りているのがセイカク谷である。
上殿河内・戸河内村諸色覚(享保12年・1727年)の「谷」の項に「清角谷」があるが、この谷のことであろう。柴木入口の西善寺の坊様「セイカク」さんが迷い込んだ谷である(「西中国山地」桑原良敏)。
セイカク谷の先の対岸を見ると、人が盛り土したような、整地された所があった。自然のなせる業であろうか。見上げると、前方に岸壁が屹立している。五立(ゴダチ)と言う。五立の中の一番大きな岩を庄兵衛岩と言う。
長い岩瀬になると赤滝。懸谷の末端を表す滝と言う。赤く見えるのは鉄分かと思っていたが、紅藻類のタンスイベニマダラのためである。少し進むと一つ目のトンネル。トンネル上部は庄兵衛岩で、見上げると、大岩が庇のように張り出している。
花が供えられた皆実高校遭難碑 |
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トンネルを抜けると、前方に青い女夫淵(メオトブチ)が見える。女夫淵の近くに皆実高校遭難碑がある。新しい花が供えてあった。1952年(昭和27年)11月2日、皆実高校生徒七名が橋が崩れて死亡する惨事が起こった。
女夫淵は大小の淵が並んでいることから名付けられたが、夫婦淵ではない。狭い谷間を遊歩道がはみ出すように通っている。女夫淵のすぐ上流に落ちているのがツエオクエキである。
「西中国山地」の地形方言の「ツエ」は崩れるの意がある。容易に登れない急峻な谷である。ツエオクエキのある左岸には、大分土砂が溜まっていた。
ツエオクエキのカーブを曲がると石樋(イシドイ)、200mの大きな花崗岩盤を侵食し、水路となっている。龍の口を一回り大きくしたような谷である。侵食の深いところは8mもある。
右岸の崖崩れの跡 |
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二谷(フタタニ)を過ぎると、高さ100mのそそり立つ岩壁の塔岩、上部に松が生えている。その先の天狗岩の下には大岩が転がっている。天狗岩の上部が崩れて落ちたもののようだ。その少し先の右岸に、崩壊して大岩が転がっている跡があった。谷の上に向山が見える。
黒淵の渡船場に説明板がある。
「黒渕 Kurofuchi 黒渕付近は、高度1000mの浸食平坦面をもつ内黒山と柴木山の間に、柴木川のはげしい貫入曲流によって形成された傾斜40度、比高600mの狭く深い大峡谷である。
黒渕のところは、流紋岩体が半曲流状に浸食され、両岸の高さ100mの断崖がせまり、深渕を形成している」
柴木山と言うのは、向山のことであろう。「書出帳・戸河内村」(文政2年・1819年)の入合山の項に柴木東平、柴木西平があり、槻(ケヤキ)・杉・栗の山だったようだ。
黒淵の渡船場に立つと、洞門のような岩壁が左右の両岸に切立っている。土砂が溜まるのか、川底は余り深くないようだ。黒淵下流右岸の山の斜面は、雑木の茂る山だが、一ヶ所だけ、山腹に小さな岩塊が取り残されていた。かつては、黒淵にあるような岩壁が下流側にも続いていたが、浸食によってすべて崩れてしまった、その名残りのような岩塊であった。
黒淵山荘側へ回ると、山荘の横に小型のパワーシャベルが置いてある。絶えず黒淵へ溜まる土砂を取り除くためのものであろうか。黒淵山荘の上流側は、100mの岩壁が屹立している。山荘の下流側には、高さ10mほどの亀裂の入った岩が残っている。
かつてこの辺りは、100mの岩壁がつづく巨大な淵であったことを想像できる。黒淵付近で谷は西側へ半円形に曲流し、その浸食作用によって岩壁が崩壊したものと思われる。黒淵の上流右岸の曲流部手前の大岩壁はその名残りであろう。
黒淵荘上部の岩壁 |
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黒淵荘に残る岩塊 |
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三段峡古い案内図の黒淵付近(戸河内町史より) |
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黒淵山荘付近は、大正期のパンフレットでは宿泊施設として「ハクウンテイ」とある。黒淵山荘は昔は「白雲亭」と呼んでいたのだろうか。
黒淵を過ぎると、谷はコの字地形に入る。この地形はサバノ頭東面の展望地から見るとよく分かる。雌滝、雄滝のカープから蛇杉橋に掛けて直線谷となる。この直線谷は750mほどある。蛇杉橋に人の足跡はなかった。二匹の動物の足跡が渡っていた。
昭和63年7月21日の記録的な集中豪雨で、マサガ谷の西の谷が崩れて、「岩屑なだれ」が起こった。そのため左岸にあった遊歩道を迂回する蛇杉橋が作られた。この先に再び左岸に渡る南峰橋がある。
南峰橋の下の辺りから淵になっている。しばらく進むと二つ目のトンネル。谷を回りこんでヌケ谷を過ぎると耶源(ヤゲン)で、巨大な岩壁が立っている。「とごうちの民話」に「耶源の岩のり」がある。里人がここで「藤かずら」にぶら下って、岩のりを採る話である。
たたら橋 |
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谷は緩やかになり、出合淵を過ぎるとミズナシ川。ミズナシ川の川口は水が無いが、50mほど上がると水の谷である。少し休憩して車道を上がった。鑪橋を渡って尾根に取り付いた。高度が増すと、真っ白い深入山が見えてくる。背には向真入山、右手にサバノ頭がある。ヒノキの樹林帯を抜けて蔵座林道に出た。
向山道標 蔵座林道 |
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蔵座林道をしばらく進むと埋まり始め、カンジキを履く。向山と微かに残る道標のある谷を登った。谷を登るとすぐに林道に出た。また谷を登ると林道で、結局三本の林道が通っていた。尾根筋をジグザグに林道が上がっているようだ。谷筋を登山道が上がっているようだが、雪が深いので、途中からスギ林の尾根を登った。
ミズナシ川入口から3時間ほどで、ようやく向山に到着。晴れた風の無い穏やかな山頂だった。ブナの先の林越しに深入山の大きな山容がある。林がなければ素晴らしい眺めだろう。向山は四等三角点で字名は「向イ山」。
東側のバア堀へ下ってみた。周辺は雪で埋まっている。さらにその下の炭焼き跡はすぐに分かった。ここで炭を焼いていたトイガ谷の里人の話では、炭焼き場のすぐ横まで池があり、ミズバショウのような花が咲いていたと言う。
バア堀の東を通る導水管の工事(1957年)の後、この池は消滅してしまった。昨年の4月、ここを通った時、炭焼き場の上部に少し水の溜まるところが残っていた。
バア堀はサルサガ池とも言う(「西中国山地」)。バア堀は婆様が徘徊していたからだと、トイガ谷の人は言っていた。
ミズナラの山を横切って、向山から降りる登山道に戻った。尾根筋のスギ林を抜けるとブナ林に出た。イノシシが掘り返した穴がある。尾根にイノシシの足跡がつづく。大木が倒れた根っこの水が溜まったヌタ場に、イノシシの足跡が入っていた。
大岩の尾根を過ぎると、導水管の通る上の尾根を下る。ピンクのテープが梶木の382ピークのある尾根に下りていた。サイレン塔から倒木の多い山道を通って、導水管トンネルの出口に着いた。大平山が正面に見える。導水管に沿う道を下る。薮ヶ迫山からサバノ頭の大きな山容が見える。三段峡の奥に比尻山が覗いている。導水管の先にある大きな山容は市間山。
足下に右岸の柴木の集落が広がっている。里近いクリノキにクマ棚が残る。電気柵を開けて、柴木川第一発電所の横に出た。大きな水鳥が柴木川の岩に留まっている。そこからほどなく駐車場に帰着した。
カシミールデータ
総沿面距離16.4km
標高差737m
区間沿面距離
柴木
↓ 6.3km
ミズナシ川
↓ 2.3km
蔵座林道
↓ 1.8km
向山
↓ 6.0km
柴木
■地名考
●向山(ムカイヤマ)
三段峡入口からミズナシ川にかけての、三段峡の東側の字名は「向イ山」である。
向山は三段峡側のマサガ谷の山である。
黒淵(クロブチ)は「西中国山地」に三ヶ所ある。弟見山東の黒淵は、白井谷川入口の福川川(フクガワガワ)にある。市間山の北のクロブチ谷は、打梨付近の太田川の支谷である。三つのクロブチの共通点は、川の湾曲部にあることだろう。
弟見山、市間山の「クロブチ」は、谷が合流する川口にあるが、三段峡の黒淵は谷の合流点ではなく、左右に大岩がある口となっている。
三段峡の黒淵は昔は深い淵であったが、現在、土砂が堆積して浅くなり、昔の面影がない。
黒淵が「クロブチ」と呼ばれ始めた時代に、大規模な土石流や土砂の堆積で、曲流部の黒淵付近が塞がれたのはでないだろうか。川が塞がれると、そこは川の入口でもあり、出口でもある。アイヌ語では、put(putu puchi)
「口」と言う。
奥三段峡の入口からしばらく進むと、崖崩れで塞がれたところがあるが、黒淵周辺では、昭和63年7月21日の記録的な集中豪雨で、マサガ谷の西の谷が崩れて、「岩屑なだれ」が起こった。そのため左岸にあった遊歩道を迂回する蛇杉橋が作られた。
「崖崩れ的な山腹斜面の崩落は、黒淵の休憩所の西端付近でも大規模に起こっていた。その痕跡は現在でも伺い知ることができる」(「戸河内町史」)。
地形図を見ると、黒淵の西側は等高線が狭く、山の斜面が窪んでいる。黒淵の東西の山の斜面を俯瞰してみると、その様子がよく分かる。黒淵の西の斜面は深く削られて、その上の尾根は、黒淵の東側の尾根と比べて、ひどく痩せている。相当量の岩石が黒淵の西斜面から落ち込んできた歴史を物語っている。三段峡の曲流は黒淵で西側に半円形に曲がっている。
カシミールで見た黒淵(薮ヶ迫山東面から) |
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●柴木(シワギ)
「三段峡に関する記録で最も古いのは、『戸河内森原家手鑑帳』(1715年)であろう。これには戸河内村内で有名な巌・崖・淵として峡谷の入口にある龍の口の淵が紹介されている」(「西中国山地」桑原良敏)。
画文集『松落葉集』(1768年)に、龍の口、三段龍頭、猿飛が紹介され、その序文に「山三峨のごときものあり、水三峡のごときものあり、蜀中の地理にほぼ相似たり」とあり、後に熊南峰がそこから三段峡と名付けたと言われている。
「とごうちの民話」に「竜雪さん」(柴木)がある。昔、竜雪さんという坊さんが、三段峡で竜の母親を助けたことから、その竜がりっぱなお寺を建ててくれ、竜雪さんは竜がくれた寺に住み、山の出口に村を作って暮らすと言う話である。
竜雪さんが暮らした山の出口の村が柴木であろう。
上殿河内・戸河内村諸色覚(享保12年・1727年)の「用水小井手」の項に「柴木」、「橋」の項に「しわき」がある。「谷」の項に「清角谷」があるが、三段峡入口から少し入ったところにある谷である。
「書出帳・上殿河内村」(文政2年・1819年)によると、正保2年1645年に、上殿河内村は、殿河内村より分かれたとある。柴木は1600年に溯る古い集落であろう。下流には縄文・弥生の遺跡群があり、古くから住む人々があったと思われる。
「書出帳・戸河内村」(文政2年・1819年)に、「里人は此川筋も随分通り申候。ひらめと申魚多居候。形帖鱒の如く味も能類し申候」とある。「ひらめ」はアマゴのことで、柴木村の人々は普段から釣に入っていたようだ。村人にとって三段峡は、生活の糧であるとともに、竜神が住む谷でもあった。
岩手県紫波町(シワ)は700年代に遡る古い地名で、シワの語源はアイヌ語の si-iwa シ・イワ 「偉大なる・神住みたまう山」意がある。
iwa イワ の古代における意味は、kamuy-iwak-i カムイ・イワク・イ 「神・住みたまう・所(山)」の意がある(「随想アイヌ語地名考」)。
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