山歩き

牛小屋…ヨビヤ峠…砥石川山…恐羅漢山 2006/7/2
牛小屋…オオキビレ…ヨビ岩…ヨビヤ峠…添郷…砥石川山…ナツヤケノキビレ…恐羅漢山…牛小屋

■恐羅漢山(オソラカンザン)1346.4m:広島県戸河内町横川
■砥石川山(トイシゴウヤマ)1177m:広島県戸河内町横川

左1019へ 右立山尾根
土塁の尾根
オオキビレ西の大岩
オオキビレから牛小屋へのふみ跡
呼岩
呼岩 2004/12/5
ヨビヤ峠
添郷集落跡
添郷集落跡
牛小屋谷の橋
田代川
展望岩のブナ
魔の池 卵塊がぶら下がる
サバノ頭と内黒峠 1166ピークから
恐羅漢山 1166ピークから
夏ヤケのキビレ
恐羅漢山
サバノ頭
970ピーク オオキビレ 1015ピーク
砥石川山
ゲレンデ
山毛欅乃木小屋
7:45 牛小屋出発 雨後曇り 気温19度
 

8:55 966ピーク
9:10 オオキビレ
9:25 970ピーク(中山)
10:00 ヨビヤ峠
10:20 添郷
12:20 砥石川山
13:00 夏ヤケのキビレ
13:55 恐羅漢山
15:00 牛小屋


 久しぶりに恐羅漢へ上がってみると、十方林道入り口に「緑資源幹線林道の早期完成を!!」と書かれた立て看板が出ていた。「大規模林道戸河内受益者組合」と横川自治会の連名になっている。

 雨の中、立山尾根と1019.7ピーク(点名:牛小屋)の間の峠から尾根へ上がった。尾根に沿って土塁がある。大きなヒキガエルが土塁の上でじっとしていた。カメラを向けても動こうとしない。1015ピークを過ぎたあたりは岩の尾根になっている。尾根筋はマツが多い。966ピークを過ぎて下ると大岩がある。ほどなくオオキビレに着いた。横川から牛小屋へ抜ける踏み跡が残っていた。

「オオキビレを越している径は、牛小屋の農家の子供の通学路であったが、今は通る人もない。牛小屋には四軒の農家があった。1700年代は牛木屋の字が使われていた」(「西中国山地」桑原良敏)。

 オオキビレを登ると970ピーク(中山)で、四等三角点が頭を出していた。中山からヨビヤ峠へ下る途中に呼岩がある。尾根上に大岩があり、南側にもう一つ、一回り小さい大岩がある。よく反響することから「呼岩」と言われているが、いろいろな角度で試したが、言われるほどに反響しない。

 呼岩から100mほど下るとヨビヤ峠。田代の子どもは、この峠を通って横川小学校に通っていた。『戸河内森原家手鑑帳』(1715年)に「呼岩峠」があるので、ヨビイワ→ヨビヤと転訛した。ヨビヤ峠から南へ少しづつ下りながら、ホイッスルを鳴らしてみたが、100mほど上にある呼岩はやはり反響しない。

 ヨビヤ峠は掘り下げてある。横川にタタラがあった頃、島根県から砂鉄を運んだ馬道であったことを示すものだろう。
 ヨビヤ峠から添郷に降りる谷を下った。支谷のあちこちから水がふきだしている。20分ほどで石垣の残る添郷集落跡に出た。その頃には雨は止んでいた。牛小屋谷を下って来て、最初の石垣があるところが添郷である。この付近の牛小屋谷は小滝が多い所である。

 牛小屋谷を下ると、今はスギ林になっている水田跡の石垣が続く。登山道は水路になっている。牛小屋谷は溢れんばかりに白濁の谷になっている。田代橋で休憩した。

 

二等三角点 

 田代橋へ降りる急な尾根を登った。濡れた径は滑りやすい。二つ目の大岩から内黒峠への展望があるが、周辺はガスが掛かっている。大岩の上にブナの実が落ちていた。見上げると後ろに大きなブナの木があった。莇ヶ岳でもブナの実が多かったが、今年は豊作年のようだ。

 そこからほどなく山頂に出たが、先ほど見えた内黒峠はもうガスが掛かっていた。三角点に二等の文字が刻んである。西側の「魔の池」の木に白い塊がたくさんぶら下がっていた。モリアオガエルの卵塊が実を付けたようになっていた。

 1166ピークへ出ると、ガスが飛んでサバノ頭が見えるが、恐羅漢山はガスで隠れ下のゲレンデが見える。羽化したセミが地面でじっとしていた。40分ほどで夏ヤケのキビレに出た。ヤハチのキビレには枯れたブナの巨木がある。その少し先が管理林道へ出る分岐。夏焼峠から1時間ほどで恐羅漢。山頂付近のガスで展望はない。

 山頂の岩でしばらく休憩して立山尾根を下った。コアジサイの淡いブルーが、雨後でいっそう見ごろになっている。少し下ると山頂のガスがウソのように展望がある。眼下にオオキビレへの尾根がある。牛小屋の堰堤の池が光っていた。立山尾根の昔の登山道はゲレンデの中に取り残されている。周辺は昔とすっかり変わってしまった。変わらずあるのは「山毛欅乃木小屋」の赤い三角屋根と広島山岳会の小屋だけになってしまった。

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カシミールデータ
総沿面距離10.5km
標高差733m

区間沿面距離
牛小屋
↓ 3.3km
添郷
↓ 2.1km
砥石川山
↓ 3.5km
恐羅漢山
↓ 1.6km
牛小屋


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地名考

●コタン(村・集落)
 「西中国山地」にアイヌ語で説明できる地名が多いが、「コタン」(集落、村)の地名がないのは不思議に思っていた。「西中国山地」の地名を調べてみると、一ヶ所だけ、安蔵寺山の南のワラビ谷に「カミコダン」の谷がある。その下流に「シモコダニ」の谷がある。

 アイヌ語の kotan kotanu は共に「村」であるが,「私の村」と言う ときは kotanu と形が変わる。前者を概念形,後者を所属形という。

 a=kotanu は「わたしの村」の意がある。 
 toan kotan a=kotanu ne
 トアン コタン アコタヌ ネ(あの・村が・私の村・である)
 などの言い方がある。

 カミコダンはアイヌ語で kamuy-kotan カムィ・コタンと表し、「神の・居所」の意がある。下流のシモコダニは、アイヌ語で suma-kotan-i スマ・コタニ と表し、「石・村の・所」の意がある。

 北海道松前郡知内町の漁港に小谷石(コタニイシ)がある。アイヌ語で、コタヌ・ウ・シ(kotanu-us-i)と表し、「その部落・ある・処」の意がある。

 「西中国山地」の「コダニ」を含む地名は数ヶ所だけで、「コタニ」はなく、「小谷」が一ヶ所ある。平家ヶ岳に「ヤケンジ小谷」がある。アイヌ語で以下の意。

 yayan-kene-us-kotan-nay
 ヤヤン・ケネ・ウシ・コタン・ナイ
 普通の・ハンノキ・群生する・村・川

 カシミールの「こたん」の読みを含む地名は、ほとんど北海道だが、広島県に「小反田」(コタンダ)がある。

 集落をアイヌ語では「コタン」といい、河川の流域や海辺といった食糧の得やすい場所に多くみられた。コタンは、基本的には父系血縁集団からなり、一つのコタンの平均戸数は4〜7戸、10戸を超えることはあまりない。

 コタンを構成する家(チセ)は、萱や笹、樹皮などを用いて造られ、長軸を東西、あるいは河川の流れと並行にもち、広さは、奥行き7m×幅5mほど(「アイヌ文化入門」HPから)。

 「西中国山地」の「コダニ」だけが「コタン」というのは少ないようにも思える。ほかに「小屋」「小屋谷」など「コヤ」の地名も「コタン」と思われる。恐羅漢山周辺のコタンと思われる地名に以下がある。

○牛小屋谷 ウシゴヤ
 kito-us-nupuri-ko-yan-pet
 キト・ウシ・ヌプリ・コ・ヤン・ペッ
 ギョウジャニンニク・群生する・山・に向って・上がる・川
 
 牛小屋には四軒の農家があった。

○田代 タシロ
 tanne-sir-etu
 タンネ・シリ・エッ
 長い・山・崎


○添郷(ソエゴウ) 
 so-e-us-kotan
 ソ・エ・ウシ・コタン
 滝・そこに・ある・村

 

 添郷付近の牛小屋谷に小滝がある。

○横川川 ヨコゴウカワ
 yoko-kotan-pet
 ヨコ・コタン・ペッ
 獲物を狙う・村・川

 横川にはかつて84戸の人家があった。

○カズラガサク
 yuk-turasi-wakka-sak-nay
 ユク・ツラシ・ワッカ・サク・ナイ
 鹿・登る・水・無し・川

○ダイダイガエキ
 tat-nitay-kes-oma-nay-ekimne-ru
 タッ・ニタィ・ケシ・オマ・ナイ・エキムネ・ル
 樺樹の・林・端・にある・川の・山へ行く・道

○キチダイボリ
 nupuri-kes-oma-tay-po-ri-nay
 ヌプリ・ケシ・オマ・タイ・ポ・リ・ナイ
 山・端・に入る・小・森の・高い・沢


○ニガセン
 si-chikap-set-un-nay
 シ・チカプ・セッ・ウン・ナイ
 鷹の・巣・ある・沢


○ゴロエノ谷
 oro-wen-nay
 オロ・ウェン・ナイ
 その中・悪い・沢

○古屋敷 フルヤシキ
 hure-yat-chise-us-ke
 フレ・ヤッ・チセ・ウシ・ケ
 赤い・樹皮・家・ある・所

○長者小屋谷
 chacha-nupuri-ko-yan-pet
 チャチャ・ヌプリ・コ・ヤン・ペッ
 親爺・山・に向かって・上がる・川

○上人小屋谷
 setani-us-nupuri-ko-yan-pet
 セタニ・ウシ・ヌプリ・コ・ヤン・ペッ
 ヤマナシ・群生する・山・に向って・上がる・川

○コウハチゴヤ
 karinpa-us-nupuri-ko-yan-pet
 カリンパ・ウシ・ヌプリ・コ・ヤン・ペッ
 桜・群生する・山・に向かって・上がる・川

○恐羅漢山(オソラカンザン)
 esorokan-ni 
 エソロカン・ニ 
 みつばうつぎの山

○旧羅漢山(キュウラカンザン)
 ki-us-oesorokan-sam
 キ・ウシ・オソロカン・サム
 茅・群生する・恐羅漢山・の傍

 旧羅漢山という山名は恐羅漢山が東へ移動したため、旧恐羅漢山と呼ぶようになったなどと思っていたが、そうではないようだ。

「旧羅漢山は、横川の呼称である。いつの頃からこう呼ばれ出したか明らかではない」(「西中国山地」)。


○砥石川山 トイシゴウヤマ
 tkito-us-kotan
 キト・ウシ・コタン 
 ギョウジャニンニク・群生する・村
 

夏ヤケのキビレ東側 島根県 砥石山
京都 砥石岳 北海道 砥石山


○夏ヤケのキビレ ナツヤケノキビレ
 nup-utur-un-yanke-not-kipir
 ヌプ・ウツル・ウン・ヤンケ・ノッ・キピリ
 野原・の間・にある・部落に近い方の・山崎の・丘

 


夏ヤケのキビレ
 立山尾根から見た砥石川山


○ボーギのキビレ
 pon-ki-nup-pet-kipir
 ポン・キ・ヌプ・ペッ・キピリ
 小さい・茅・野・沢の・丘

○ジョシのキビレ
 so-us-nay-kipir
 ショウ・ウシ・ナイ・キピリ
 ジョシ谷の・丘


★焼杉山 ヤケスギヤマ or 村杉山(広見側)  yanke-not-utur-kus-nay
 ヤンケ・ノッ・ウツル・クシ・ナイ
 内陸の方にある・山崎・の間・を通る・川
 

 「西中国山地」に「キビレ」を含む地名に以下がある。

 アカゴウキビレ 十文字キビレ カマのキビレ ジョシのキビレ 夏ヤケのキビレ ヤハチのキビレ ボーギのキビレ ケンノジキビレ オオキビレ 鳥越キビレ カザゴヤキビレ オオキビレ ジャノクラキビレ ジョシのキビレ バーのキビレ ボーギノキビレ

 「キビレ」があるのは恐羅漢山とその周辺に限られており、唯一例外は冠山北のボーギノキビレだけである。ほかに「クビレ」と呼ぶ地名が広見山にある。「牛首」(ウシクビ)も鞍部の別名だが、「クビレ」「クビ」は「キビレ」の変形と思われる。元の「kipir」と呼んでいた地名が、「キビレ」「クビレ」「クビ」と変化し、あるいは「峠」に変化したようだ。

 北海道苫前町(苫前郡)に力昼(リキビル)がある。ri-kipir と表し、「高い・崖」の意がある。

 キビレ(kipir キピリ)の呼び名が恐羅漢山周辺で多く残っているのは、コタンで暮らすアイヌの人々が、最後まで残っていた地域なのかもしれない。

 「ボーギ」は従来、県境、国境の意として説明されているが、「西中国山地」では「ボーギ」の呼び名は焼杉山と冠山だけである。ほかに柏原山の傍示峠がある。hawki(ハウキ)はアイヌの人々が祈りを唱えることだが、その際、木幣を立てる。国境の標示に木柱が使われたと言うが、そもそもの始まりは祈りのための木幣だったと思われる。

 ハウキ→ボウキ→ボーギ と転訛が考えられる。

 
呼岩(ヨビイワ)

 北海道網走に呼人(ヨビト)がある。アイヌ語で yopi-to ヨピ・ト と表し、「分れ・沼」の意があり、親沼から別れ出ている湖のことを表している。
 群馬県尾瀬にヨッピ川がある。分かれ・川の意。

 呼岩の初見は『戸河内森原家手鑑帳』(1715年)で、『松落葉集』(1768年)に詠われているが、よく反響することを詠ったのでなく、「呼岩の反響かと思ったら、カッコウの鳴き声だった」という詠なのである。作者の「梅北」は呼岩の前で反響を試してみたが、あまり反響しなかったので、こんな詠をつくったのではないかと思われてくる。

 呼岩はアイヌ語で yopi-iwa ヨピ・イワ と表し、「分れ・岩」の意がある。左右に分かれた呼岩の語源は yopi-iwa であろう。呼人やヨッピ川は「分れ」の意で使われている。
 

 
 

970ピーク オオキビレ 1015ピーク  立山尾根から
左 砥石川山 牛小屋谷 正面は深入山 右手前は中山
登路(青線は磁北線 青は900m超 ピンクは1000m超)