山歩き

2008/12/21
横吹峠

ヒサゲ谷…樋佐毛山…櫛山…熊の城山 2006/5/20
上志路原…ヒサゲ谷…樋佐毛山…櫛山…栃畑…熊の城山…天狗シデ…松才川…志路原…上志路原

■樋佐毛山(ヒサゲヤマ)952.0m:広島県山県郡豊平町大字志路原字番ノ木
■櫛山(クシヤマ)1002m:広島県山県郡豊平町大字志路原
■熊の城山(クマノジョウヤマ)997.5m:広島県山県郡芸北町大字溝口字野地井

ヒサゲ谷入口
ヒサゲ谷 鍋渕橋付近
人参畑橋付近
伐採地を落ちるヒサゲ谷
スギ林の林道
ヒサゲ谷左谷
倒れたスギ
大岩
樋佐毛山東面のスギ林
樋佐毛山
尾根径
櫛山(丸掛山)
木の階段
熊の城山
栃畑
栃畑からの展望 加計山
3mブナ 栃畑北

熊の城山

櫛山
左 寒曳山と志路原川
熊の城山 天狗シデ分岐
樋佐毛山と櫛山
平家山
天狗シデ
ヒノキ林を下る
灰ガ谷
奥灰ガ谷
燕岩(ツバクロイワ)
松才山
7:15 鳥越出発 晴れ 気温16度

8:00 689P
9:15 樋佐毛山
9:45 櫛山(丸掛山)
10:05 栃畑
10:35 熊の城山
11:40 天狗シデ 
12:20 奥灰ガ谷 
13:15 上志路原

 上志路原のバス亭を出発。ヒサガ谷の林道を上がった。雨後で水量が多い。まだ雲が残り、ガスが出て見通しが悪い。ヤマメの養殖場がある。「適正狩猟」と書かれた看板がある。「脱包の励行、転倒に注意、矢先の確認、銃の管理の徹底」と書かれている。この辺りは縄文の時代から狩猟に適した所と思われる。最初の橋は「鍋渕橋」、次は「太刀掛橋」「人参畑橋」と続いた。それぞれ意味があるのだろう。

 人参畑橋を渡ると右岸は伐採されている。裸になった谷を白く泡立って谷が落ちている。林道の舗装は伐採されたところまでだった。林道沿いはスギの大木が多い。林道が南へ回りこむと689ピーク。下から林道を見上げると、急斜面に林道の底面のコンクリートが半分露出している。
 林道の曲がり角からヒサゲ谷水源の左谷へ入った。この辺りは伐採され、スギ林とヒノキ林の境目になっている。
 
 少し谷を上がるとヒノキやスギが雪でアチコチ倒れている。ゴウロ帯を過ぎて大岩のある所から尾根に取り付いた。急な、開けた谷は棘で覆い尽くされている。しばらく難渋した。尾根が緩やかになると踏み跡が現れた。スギ林を抜けて尾根筋に出た。雨がぱらつく。出発から2時間で山頂。林で展望はない。

樋佐毛山

 山頂のプレートを見ると、「野地井峠〜熊の城山〜櫛山〜椎谷峠」のルートが示されている。野地井峠は枕の呼び名で横吹峠(田原)のことである。

 樋佐毛山の点名は「溝口」で二等三角点、選点は明治26年、所在地は山県郡豊平町大字志路原字番ノ木。

 椎谷峠への踏み跡はしっかりしている。櫛山へ向かった。山頂のすぐ先の尾根に林道が上がっている。おそらくヒサゲ谷から上がる林道と思われる。尾根の東側はスギ林と思ったら、いつの間にかヒノキ林になっていた。西側に若いブナがある。

 樋佐毛山から30分ほどで櫛山。林で展望はない。平成16年の丸掛山のプレートが掛かっている。櫛山は溝口の呼称、大朝の田原では野地井山と呼んでいる。丸掛山はどこの集落の呼び名だろうか。古名は上櫛山(『芸藩通志』)と言う。広島山稜会の分水嶺のプレートもある。この山に三角点はない。山頂のすぐ先に境界柱があるが、三角点ではない。さらに少し先に古そうな石柱があった。「山」の字が読めるが、境界標だろうか。

 尾根を進むと木の階段がある。尾根に大きなブナが折れていた。前方に熊の城山がみえる。20分ほどで栃畑へ下りた。栃畑には周辺の樹林の概念図の看板があり、便利である。栃畑の登りから加計山、火野山、平家山の展望がある。栃畑のキリシマツツジはもうすぐ終わりのようだ。鞍部から少し登ると、周囲3mの大きなブナがあった。その先にもう一本、痛んでいるが大ブナがある。熊の城山の山頂は登山道のすぐ脇にあるので通り過ぎてしまいそうである。

熊の城山

 熊の城山の点名は熊城山(クマシロヤマ)で四等三角点、選点は昭和51年、所在地は芸北町大字溝口字野地井。熊の城山は志路原の呼び名のようだ。枕、溝口では通じない。(「西中国山地」)。熊の城山はクマの居る山ではない。熊の城山から樋佐毛山にかけて、起伏のない緩やかな尾根が続いている。アイヌ語で「kuma」は「横山」の意がある。

 熊の城山の先に、車道に下りる分岐がある。尾根径は分岐の先辺りで終わり、茂った急な踏み跡が横吹峠へ降りている。尾根の端から櫛山が展望できる。整備された木の階段を下った。サンショウガケに上がる舗装された車道が見える。分岐にある「モクレンの道 車道900m」の道標で、どっちが天狗シデに出るのか迷っていたら、お二人が天狗シデから上がってきたと言う。少し下ると栃畑への分岐があり、そこから100mほどで舗装された車道の終点に出た。下ってきた熊の城山が頭上にあった。

 少し下ると、トイレのある展望地から東へ延びる志路原川の左手に寒曳山の大きな山容がある。さらに下って「サクラの森750m」と書かれた道標のところで、車道と山道に分岐する。そこからは櫛山の左手に樋佐毛山が見える。山道を下ってほどなく天狗シデに出た。

 柵で囲まれた斜面に数十本の曲がりくねった幹や枝の天狗シデは奇観である。ブナの奇形「アガリコ」さんをひと回り小さくしたような木々が集団をつくっている。大朝町の説明板によると「テングシデはイヌシデの変種で、幹や枝がくねくねと曲がり、枝先がしだれるなど、その独特な姿に特徴がある。突然変異は一代限りで終わるが、ここでは代々受け継がれ群落を形成しているが、世界的にもめずらしく、遺伝学的な調査であきらかになった」。

 車道を下ると「大朝町丸掛山町有林造林事業」の石碑がある。櫛山にあった「丸掛山」は大朝の山林名の呼称のようだ。その石碑には「串山」と「熊城山」の山名がある。
 シマヘビが驚いて側溝に落ち逃げ惑っている。灰ガ谷を下り、林道松台線に出た。マツザイは松才、松歳、松台などと表しているようだ。松台線から奥灰ガ谷に出て松歳川を下った。カメさんが車道で右往左往している。

 「入山注意」の看板が、志路原部落会と志路原生産森林組合の名で出されている。松歳川に沿う道は「町道志路原 田原線」と言う。国道433号線から燕岩が見える。「沖条口」のバス亭の先に「大字志路原」と書かれた古い石柱が立っていた。次のバス亭は「中沖条口」、右手に松才山を見ながらほどなく出発点に帰着した。

大朝町のテングシデ群落
テングシデ
 
 

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カシミールデータ
総沿面距離14.2km
標高差595m

区間沿面距離
上志路原
↓ 3.8km
樋佐毛山
↓ 1.3km
櫛山(丸掛山)
↓ 1.2km
熊の城山
↓ 2.4km
天狗シデ
↓ 5.5km
上志路原


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地名考

●櫛山(クシヤマ)

 釧路はアイヌ語で kusuri クスリと呼ばれている。釧路川上流に何ヶ所も kusuri(温泉)がある。
 また斜里や根室への kus ru クシ・ル(通る・道)の由来もある。   

 カムイ・クシ・イ kamuy-kus-i は「神が・通る・所」の意がある。

 櫛山は『芸藩通志』溝口村絵図(1825年)に「上櫛山」とあり、「カミクシヤマ」の読みと思われる。

 カムイ・クシ・イ→カミクシ の転訛

 おそらく古名は「上櫛山」(カミクシヤマ)と呼んでいたのだろう。櫛山はクマの通り道だったと思われる。

●ソエ谷

 北海道の初山別村は、ショ・サン・ベツ so-e-san-pet と表し、「滝が・そこから・流れ出ている・川」の意。
 添牛内は ソエウシナイ so-us-nay と表し、「滝の・ある・川」の意。
 ソエ谷は
 so-e-an-nay ソ・エ・アン・ナイ 滝・そこに・ある・川

 so は ソ、ショ、ショウ などと読む。

●丁川(ヨロ、ヨウロ、ヨオロ)

 北海道の名寄(ナヨロ)はアイヌ語で、ネイ・オロ nay-oro と表し、「川の・所」の意がある。

 岩手県のヨロベツ沢(ヨロベツザワ)はアイヌ語で、イウォル・ペッ iwor・pet と表し、「狩場の・川」の意がある(「随想アイヌ語地名考」)。

 丁川(ヨオロ)は加計から上がり、樋佐毛山西の溝口ではヨウロ川(5万分の1地形図)、ヨロ川(「西中国山地」)と呼ばれているようだ。ヨロ川は溝口の上流からクシの谷が栃畑へ上がっている。

 「クシの谷」は カムイ・クシ・ツン・ナイ kamuy-kus-tun-nay と表し、「神が通る谷川」の意がある。この神はクマのことだろう。ヨロ川はイウォル・ペッ iwor-pet と表し、「狩場の川」だったと思われる。

 千代田インターの東に「丁保余原」(ヨウロホヨバラ)がある。アイヌ語で iwor-oro-para と表し、「狩場の・所の・広場」の意がある。

 丁保余原の東に古保利(コホリ)がある。アイヌ語で コロ・ポク・クル kor-pok-kur と表し、「フキの葉の・下の・人々」の意がある。

 『延喜式』(927年)安芸国上管に「山県」(ヤマカタ)があり、『倭名類聚集』(平安中期)に山県郡壬生がある。壬生の古保利薬師堂にある薬師如来坐像は平安時代初期(9世紀)の作で、平安時代初期の作風を伝える仏像である。古保利にヒノキの巨木があったが、落雷で折れ、幹の下部が生き残っている。

 丁保余原の狩場に近い古保利はキムンカムイが出没していたと思われる。コロボックルはそっとアイヌにそれを教えただろう。

●熊の城山(クマノジョウヤマ)

 「西中国山地」では春日山に「クマノジョウ谷」があり、「クマ」は「横山」の意がある。「横山」というのは起伏が少なく横に連なっている様を表わしている。熊の城山から樋佐毛山にかけて、平坦な稜線が続いている。

 北海道のクマネシリ岳はアイヌ語で 
 kuma-ne-sir と表し、「横山・の・山」の意がある。

 クマノジョウは元々「クマノシロ」と呼んでいたと思われる。

 アイヌ系の人々は「熊の城」を「クマネシリ」と呼んでいたが、後世に「熊の城(クマノシロ)」と漢字で表し、「クマノジョウ」と呼ぶようになった。

 志路原川の下流にある「平家ヶ城」(ヘイケガジョウ)はアイヌ語で ape-hekote-kamuy-sir アペ・ヘコテ・カムイ・シリ と表し、「火・守り・神・山」の意がある。

 アペ・ヘコテ・カムイ・シリ→ヘコテ・カムイ・シリ
    →ヘイケ・カ(ムイ)・シロ→平家ヶ城 の転訛

 同じく「火神城山」(ヒガミジョウヤマ)はアイヌ語で
 ape-huchi-kamuy-sir アペ・フチ・カムイ・シリ と表し、「火・老婆・神・山」の意がある。

 アペ・フチ・カムイ・シリ→ヒ・神・シロ→火神城 の転訛

 猿喰山(サルマミ、サルマメ)の西に城山(ジョウヤマ)がある。
 アイヌ語で sir-anpa-kamuy シランパカムイ と表し、「大地・を持つ・神」の意で、「樹木のカムイ」を意味する。

 シランパカムイ→城・アンパ・神→城 の転訛

 この辺りでは山名の「城」を「ジョウ」と呼んでいる。元々アイヌの人々が「シリ」(sir)と呼んでいたのを、「シロ(城)」から「ジョウ」に変更している。

 櫛山東の平家山(ヘイケヤマ)はアイヌ語で、アペ・ヘコテ ape-hekote-kamuy と表し、「火の・守り・神」の意がある。

 アペ・ヘコテ・カムイ→ヘコテ→ヘイケ→平家 の転訛

 「ヘイケヤマ」の呼び名は広島県2と山口県の三ヶ所しかない。

 「西中国山地」の鬼ヶ城山はアイヌ語で、オンネ・カムイ・シリ onne-kamuy-sir と表し、「老いた(大きい)・神・山」の意がある。北海道のオニセップ川は onne-chep 「老いた・鮭」の意がある。周辺の冠山、茅帽子山、羅漢山、小室井山は「カムイ」を含む山である。

 「西中国山地」周辺の山名では、「〜ヶ城」は「〜カムイ・シリ」に、「〜ヶ岳」は「〜カムイ・パケ(頭)」置き換えることができるようだ。

 「平家ヶ岳」は「hekote-kamui-pake」(守り・神の・頭)
 「馬糞ヶ岳」は「ahun-kamuy-pake」(アフン あの世の・神の・頭)
 「莇ヶ岳」は「asam-kamuy-pake」(アサム 底の・神の・頭)
 大神ヶ岳は「tay-sir-kamuy-pake」(タイ 森の・山の・神の・頭)

 大峯山に冠嶽の古名があるが、kamuy-nupuri-pake 「神の・山の・頭」と思われる。八幡の嶽も「カムイ・ヌプリ・パケ」のようだ。

●樋佐毛山(ヒサゲヤマ)

 北海道の沙流川(サルガワ)はアイヌ語でシシリムカと言い、よく氾濫を起こす河川として、昔から恐れられていたという。沙流は砂が流れるの意だが、流れた砂が河口に堆積し、川を詰らせてしまう。
 アイヌ語では si-sir-muka と表わす。「本当の・大地・塞がる」の意だが、「よく・砂が出て・塞がる」の意がある。

 樋佐毛山から落ちるヒサゲ谷の下流に志路原(シジハラ)がある。アイヌ語で シシパラ si-sir-para と表わし、「よく・砂が出る・広場」の意がある。

 シシリムカは平取町にあり、志路原は豊平町にある。川の名も同じ「シシリ」である。シシリムカに二風谷(ニブ)があるが、志路原川に壬生(ミブ)がある。
 シシリムカでは毎年「チプサンケ」(船おろし祭り)が行なわれ、「新しく造った舟に新たな生命を与える入魂の儀式」がある。その儀式に登場する神々が樋佐毛山周辺の山名に似ていることに驚かされる。

 北海道の平取町からやってきたアイヌ系の狩猟民が樋佐毛山周辺でチプサンケの儀式を行なっていたのではないかと思われてくる。

 he-sanke-nay
 ヘ・サンケ・ナイ
 顔を・浜の方に出している・川

■チプサンケの儀式で登場するアイヌの神と樋佐毛山周辺の地名

▲船おろし(チブサンケ cip-sanke) 
  樋佐毛山(ヒサゲヤマ)
▲火の守り神(ape-hekote-kamuy) 
  平家山(ヘイケヤマ)
▲火の老婆の神(アペフチ ape-huchi-kamuy) 
  火野山(ヒノヤマ)
▲家の神(チセコロ cise-kor-kamuy) 
  椎谷山(シイタニ山)
▲祭壇の神(ヌサコロ nusa-kor-kamuy) 
  燕岩(ツバクロイワ)
▲樹木の神(シランパ sir-anpa-kamuy) 
  城山(ジョウヤマ シロヤマ)
▲水の神(ワッカウシ wakka-us-kamuy-kut) 
  牛が首山(ウシガクビヤマ)
▲船の女神(チプカッケマツ cip-kakkemat)
  加計山(カケノヤマ)松才山(マツザイヤマ)
  丸掛山(マルカケヤマ 松掛山かも)

■他の神に関係あると思われる地名
△平家ヶ城山 ヘイケガジョウ ape-hekote-kamuy-sir
△火神城山 ヒガミジョウ ape-huchi-kamuy-sir
△頭ヶ津古山 カシラガツコ
△小津古山 コツコ
△猿喰山 サルマメ サルマミ sar-or-un-kamuy
△野々志山 ノノシヤマ nonno-sir 花の山
△唐代山 カラシロ kar-sir 火を作る山

 以下にチブサンケの流れと地名を対応してみた。

(アイヌ文化博物館ホームページRANKO月報5号から)
 毎年8月20日にチプサンケ 船おろし祭り が開かれます。
チプサンケとは
 本来は、新しく造った舟に新たな生命を与える入魂の儀式です。川の神に舟を造ったことを報告し、山の神には船材をさずけていただいたお礼を言います。それぞれの神に感謝を込め、カムイノミ(神への祈り)をします。毎年新しい舟を造ることはありませんが、舟の安全を祈るとともに儀礼を伝えていくためにも、毎年同じ日にお祭りが行われています。チプサンケを簡単にご紹介します。
チプサンケの流れ
■カムイにたいして感謝し、安全を願う祈りを行います。
チプサンケの流れ 関連地名
アペヘコテ カムイノミ 
火の神様への お祈り

チプサンケ アペヘコテ カムイノミ 
舟おろし 火の神様への 祈り

チセコロカムイ アノミ 
家を守る神への 祈り

ヌサコロカムイ アノミ 
祭壇を司る神への 祈り

シランパカムイ アノミ 
樹木(森)の神への 祈り

ワッカウシカムイ アノミ 
水の神への 祈り

チプカッケマッ アノミ 
舟の女神への 祈り

チプサンケ ワッカウシカムイ アノミ 舟おろし 水の神へ 祈り
平家山


樋佐毛山 平家山


椎谷山


燕岩(ツバクロ)


城山


牛が首山


加計山 松才山


樋佐毛 牛が首山

■皆で共に踊り歌います。
■舟を川に運び交代で舟にのり、川遊びを楽しみます。
■無事に終了することを知らせ、感謝しながら祈ります。 
「舟の女神への祈り」の紹介
 入魂式が終わるといよいよ進水です。舟が左右のバランスも申し分なくみごとに浮かび、皆の間から祝福の言葉と拍手がわきおこったときの感激は何物にもかえがたいものだと萱野茂さんは語っています。なお、夜のサケ漁で舟を出す際、アイヌの人々は舟の女神も眠っておられるものだと考えていましたから、眠りをさますために舟べりをさおで軽くたたきながら舟の女神へ祈りました。
チプサンケの流れ 関連地名
チプカッケマッ アノミ         
舟の女神に私祈る
                 
チプカッケマッ イリクンネト     
舟の女神様、夜ではありますが、

タ ネワネコロカ アエプネマ    
私たちの食べ物、そして、 

ヌプ チェプネマヌプ チコン    
一番は、火の神さまも一緒に食べるために。

ルスイクス エカシルウエネ      
鮭をとりに行きます。          

イッケウエタ イレスフチ パ    
どうぞ無事に川を渡して下さい。

ロチェオイキ クスタプタ イ
キアッシリネナ アプンノウネ
プンキネワ ウンコレヤン

参考文献 萱野茂「アイヌの民具」より引用
加計山 松才山


加計山 松才山





●一兵衛山と樋佐毛山

 カブリ山東の一兵衛山も「チプサンケ」のようだ。一兵衛山は一兵衛山家山(サンカ)とも言う。

 チプ・サンケ→チベ・サンケ→イチベイ・サンカ の転訛

 一兵衛山周辺でも、チプサンケの儀式で登場するアイヌの神と似た山名がある。
一兵衛山周辺 樋佐毛山周辺 アイヌのカムイ
一兵衛山家山
イチベイサンカ
樋佐毛山
ヒサゲ
cip-senke
チプサンケ
松原山
(日野城山)
松才山
マツザイヤマ
cip-kakkemat
チプカッケマツ
日野城山
ヒノシロヤマ
火野山
ヒノヤマ
ape-huchi-kamuy
アペフチカムイ
城山
ジョウヤマ
城山
ジョウヤマ
sir-anpa-kamuy
シランパカムイ
大郷路
オオゴロ
燕岳
ツバクラダケ
nusa-kor-kamuy
ヌサコロカムイ
サルクライ山 猿喰山
サルマミヤマ
sar-or-un-kamuy
サルルンカムイ
智河原山
チゴウラヤマ
椎谷山
シイタニヤマ
cise-kor-kamuy
チセコロカムイ

 樋佐毛山や一兵衛山周辺の山名は、チプサンケで登場するアイヌの神々である。おそらく周辺に大きなアイヌコタンがあったと思われる。

 志路原周辺には船峠(フナダオ)、海応寺(カイオウジ)、筏津(イカダヅ)などの船に因む地名がある。

 下流の千代田町八重の管弦祭は、旧暦の6月17日に行なわれ、「八重丸」「十日市丸」「新地丸」などの「オカゲン船」(陸船・飾船)が地域から出て、五日市胡子神社から十日市胡子神社まで町内を練り歩く行事が昔から行なわれている。管弦舟は竹の枠で組んだ舟形の屋台を車にのせ、周囲に紅白の提灯を吊り、火を入れる。中に入った若者が屋台を上下させると舟は大きく揺れ、波間を漂っている姿を連想させる。

 子供たちは祭りの歌を歌うのが役目である。さらに下流の可愛川の八千代の土師では子どもが麦わらで作った舟に火を入れて川へ流していた。

 これらの管弦舟はチプサンケにその由来があるのかもしれない。

 『サンカト唱無宿人共不差置様御触』(安政2年・1855年)によると、「サンカト唱無宿人共近年所々数多罷在、喰事用鍋釜等其外合羽桐油之類渠等不相当之品所持、何所ニ而も竹木取合小屋掛いたし、桐油等ヲ以雨雪を防候故、無差門閊所々心易致徘徊、中ニハ山野人離之小蔭等へ数多寄り合…」などと書かれた山県郡御役所の割庄屋六人の連名でお触れが出されている(「千代田町史」)。

 「サンカ」と呼ばれる人々は多くいたようだ。「サンカ」は定住しないで山奥等に住み、狩猟や細工物を業とした漂白民であった。そのため藩による掌握が難しく、厄介者であったため、厳しく追い払うよう村役人や百姓に命じているが、来訪を歓迎する百姓もあり、共存関係があったようだ(「千代田町史」)。

 「サンカ」の呼び名は、何を指してそう呼ぶようになったのだろうか。「サンカ」と呼ぶ理由があったと思われる。一兵衛山(イチベエヤマ)の所在地は「島根県那賀郡旭町大字都川字市兵衛サンカ」である。一兵衛サンカ山は字名の「市兵衛サンカ」そのものである。

 一兵衛山と樋佐毛山の共通点はチプサンケである。山県郡御役所もおそらく旭町の御役所も「サンカ」と呼ぶ共通点があったと思われる。

 チプ・サンケのことを「サンカ」と呼んだのではないだろうか。「チブ・サンケをする人」「船おろしの儀式をする人」を「サンカ」と呼んだのではないだろうか。そして漂白民のことを「サンカ」と呼ぶようになった。

 「サンカ」の意味はその初期には「チブサンケ家」として使っていたのではないだろうか。「家」は氏・姓・官職・称号などに付いて、それに所属するものの意を表す。また尊敬の意を添える(「大辞林」)。それが時代ともに流浪民を表すようになった。

 おそらくこの御触れで言われている「サンカ」は、縄文の時代から周辺のコタンに住み、チプサンケを行なっていた先住のアイヌ系の人々の祖先が含まれていると思われる。

 一兵衛山は「一兵衛サンカ山」の山名の方が、その由来を表していると思われる。

天狗シデ
          樋佐毛山                       櫛山                     熊の城山   「kuma」(横山)地形
登路(青線は磁北線 青は900m超 ピンクは1000m超) 
kamuy-sir