6:25 蔵座出発 晴のち曇のち雨 気温4度
8:00 向真入山
10:10 葭ヶ原
11:30 三段峡取付点
15:05 バア堀
15:20 向山
15:30 畳ケ平
15:40 最早山
16:30 蔵座林道
16:45 蔵座駐車場
蔵座の駐車場から林道を下ると、「水梨線林道」の石碑がある。堂座橋を渡り、少し下った先峠から落ちる谷と水梨林道の合流点を「閂渡」(カンヌキワタリ)という。かつてここが牧場の入口だった。水梨川を渡り尾根に取り付いた。林間から朝陽に輝く深入山が見える。向真入山東面は刈り尽くされた山のようだ。小バトのような鳥が舞い降りて先の枝に留まった。
向眞入 |
 |
向山と最早山が見える。間にある畳ガ平(タタミガナル)は平坦で鞍部というほどでもない。先峠から上がる尾根の手前から土塁が現れる。尾根筋はアカマツが多い。土塁に沿って進むと、ほどなく向真入山。四等三角点で点名は向眞入、選点は昭和27年。林間から深入山、向山が見えるが展望はない。
山頂から100mほど進むと土塁は北側の尾根に下りている。土塁は西側が深く掘り下げてあるので、向真入山西面が牧場だったと思われる。三段峡へ降りる尾根に入るとブナが多くなる。前方に恐羅漢山と砥石川山が見える。こちらから見る砥石川山は方形でなく違った山に見える。
ブナを見上げると葉が出始めている。ヤマツツジがあちこちで山を賑わしている。大きなブナが根元で折れていた。風にやられたようだ。タムシバの白い花が残っている。サバノ頭が迫ってくる。751ピークを過ぎて岩山を二つ越すと最後の下り。サイレン塔を通り、葭ヶ原の店に出た。向真入山から2時間ほどかかった。
少し休憩して、横川川と三段滝から降りる柴木川の合流点で、釣り人の成果を見せてもらった。アマゴとゴギが釣れていた。15cmほどの小ぶりだった。
向山へ上がる取付点を探して三段峡を下った。水梨川の入口は広い平坦地になっている。林道ができるまでは草地だったと思われる。水梨は水無とも表す。
北海道に多い水無川はアイヌ語で ワカサカナイ wakka-sak-nay(水・無い・川)と表す。伏流水になっている川のことだ。
ミズナシの読みをアイヌ語に当てはめると
ムン・ツム・ナイ mun-tum-nay と表わし、「草むらの沢」の意となる。ミズナシ川の名称が古くさかのぼる名であれば、おそらく「草むらの川」と呼ばれていたと思われる。
サバノ頭から落ちるヌケ谷は大石がゴロゴロしている。マサガ谷を登りかけたが、下からは見えないが奥は滝になっている。結局、黒渕の手前まで下って尾根に取付いた。1時間余り、急な登りとなる。シマヘビがあたたかい斜面で春を楽しんでいる。サイレン塔を過ぎるとやっと緩やかな尾根になった。ここから少し東へ下れば柴木発電所から上がっている導水トンネルの出口がある。踏み跡が薄っすらと残っている。この辺りのブナは木の頭上に葉がたくさん出始めている。株立ちしたヤマザクラの大木があった。
1時間半ほど登り、右手のワル谷水源に出たところで東へトラバース、導水トンネルが下を通っているあたりの尾根に進んだ。そこから導水トンネルの西に上がる緩やかな谷筋を上がった。くぼ地らしきところで辺りを見回していると丸く掘り下げて、石積みの残る炭焼き窯跡があった。板ヶ谷のトイガ谷のおじさんの話ではバア堀のすぐ傍で炭を焼いていたというから、ここがバア堀だったのは間違いないだろう。しかし傍に堀はなかった。
くぼ地から谷を上がると水流が現れた。そこから少し上がったところに水が溜まり、長さ十数メートルほどの小さな池があった。この付近がバア堀であったことは間違いないと思われる。この小池から炭焼き窯跡へ落ちる水流は途中で消えている。おそらく導水トンネルへ落ちているのではないだろうか。
「ワル谷本谷と支谷のマツオ谷にはさまれた尾根にある湿地をバア堀という。昔は水が多く池沼となっておりサルサガ池とも呼んでいた。バア堀の名は広く知られていて、柴木、板ヶ谷、松原でも聞いた。伝承めいたものもあるらしい。バア堀の水が無くなったのは、直下を通っている柴木発電所の導水トンネルのためだと、板ヶ谷の村人は話していた」(「西中国山地」桑原良敏)。
バア堀の名はこの辺りを婆様が徘徊していたことから付けられたと、トイガ谷のおじさんから聞いた。導水トンネルが原因だというのはトイガ谷の人も言っていた。
東北に猿沢の地名が多い。サルサワはアイヌ語で sar-sa-wa と表し、「湿原の砂浜の岸辺」の意がある。サルサワ→サルサガ の転訛と思われる。
葉が出始めたブナ |
 |
さきほども一雨降ったが、また降り始めた。バア堀から10分余りで向山へ着いた。バア堀は向山の南東250mほどのすぐ近くにある。三角点の周辺に貝殻が転がっていた。カラスがくわえて、ここまで運んだのだろうか。転がっている貝殻を三角点の石柱に置いて写した。どうもアサリに見えるのだが。
最早山へ下る鞍部は畳ケ平という。奥三段峡に同じ名称があるが、谷底の岩盤が段々になっている所である。こちらの畳ケ平はどんな意味で名付けたのだろうか。畳ケ平から10分ほどで最早山、その先に大岩がある。先にあるヒノキ林を抜けて蔵座へ下った。蔵座林道へ出る手前のヒノキ林の開けたところに枯れた大木があった。近付いてみると新芽が出ていて、まだ生きていた。トチに見えるが良く分からない。周囲6.6の巨木だった。蔵座林道から15分ほどで駐車場へ帰着した。
カシミールデータ
総沿面距離14.1km
標高差636m
区間沿面距離
蔵座
↓ 2.2km
向真入山
↓ 2.8km
葭ヶ原
↓ 7.0km
向山
↓ 0.6km
最早山
↓ 1.5km
蔵座
地名考
●苅尾山(カリウザン・カリオサン)・掛津山(カケヅヤマ)
「カリウ山の初見は、黒川道祐『芸備国郡志』(1663年)である。山川門の項に狩龍山とあるのがそれで、漢文で記されているこの書はカリウ山と呼ばれているこの山に、発音通り狩龍山を当てたものと思われる。黒川道祐は都会の人である。狩龍山という字が現地でつかわれているか否か確かめなかったと思われる。苅尾山の初見は、『八幡村御建山野山腰林帳』(1716年)である。他に、こうつなぎ山、かけつ山、とうせいだおの名が見られるが、苅尾山だけがはっきりと漢字で書かれているのが印象的である」(「西中国山地」桑原良敏)。
苅尾山は
1663年 カリウ山(狩龍山)、1716年 苅尾山
と変遷した。
文禄・慶長年間(1592〜1614年)に石州から砂鉄が入り、タタラ操業が始まっている。
戸河内の松原は周辺ではもっとも古い時期のタタラ操業で、寛文8年(1668)から加計村の佐々木家が操業開始している。苅尾山周辺では、佐々木家の蔵座タタラ(1699〜1705年)が最初のようである。
黒川道祐が「狩龍山」と表した頃はまだブナの原生林が残っていたのかもしれない。それから50年の間に「苅尾山」と表すほど、一気に草山となったと思われる。「カリウ山」は草山になる前の山名の呼称だったのでないだろうか。
「西中国山地」に「カリウ」「カリュウ」の地名はないが、「カリ」を含む地名は「カリハタ」「カリマタノ峠」「カリヤ谷」の三ヶ所ある。
大峯山北の「カリハタ」は水内川が志井で南へ分岐する奥にある。
小五郎山東の「カリマタノ峠」は宇佐川から北へ分岐するハマゴ川の奥にある。
平家ヶ岳北の「カリヤ谷」は高津川上流で広尾から南へ分岐する奥の谷である。
「西中国山地」では「カリ」を含む地名は川の本流から支流に入った奥まったところにあるようだ。
苅尾山の東に苅屋形(カリヤカタ)がある。古名は「狩屋形」と表した(『書出帳・苅屋形村』1819年)。苅屋形は滝山川の最も上流にある。
周辺の「カリ」で始まる地名に広島県(仮屋原、刈谷、苅畑)、島根県(仮屋、刈谷原)などがあり、やはり同じ傾向にある。
北海道・石狩川 si-kari |
 |
北海道の石狩川は河口付近でぐねぐね曲がっているが、アイヌ語でイシカリベツ i-si-kari-pet と表わし、「そこで・本当に・曲がった・川」の意があり、「曲がりくねった川」を表わしている。
石狩川の地名は北海道に多くあり、川の曲がりくねった地形が多くあることを示している。
カリハタはアイヌ語で kari-pa-ta と表し、「(川の)曲がった山の所」の意がある。
カリマタは kari-mak-ta と表し、「(川の)曲がった奥の所」の意がある。
カリヤは kari-ya と表し、「(川の)曲がった縁」の意がある。
カリヤカタは kari-ya-ka-ta と表し、「(川の)曲がった縁の上手の所」の意がある。
カリウ山は柴木川の奥で曲がったウマゴヤ谷の先にある。
アイヌ語で kari-us と表し、「(川の)曲がった所」の意が考えられる。
また別の観点からみると、以下の意もある。
kamuy-ru-pes-pe
カムイ・ル・ペシ・ペ
熊・道・下る・もの (カリウザン)
kamuy-ru-o-i
カムイ・ル・オ・イ
熊の・足跡・多い・所 (カリオサン)
掛津山の初見は『山縣郡政所村差出帳』(延宝7年・1679)で「かげす山」とある。その後の年代の村々の『書出帳』などでは「かけず」「かけつ」「加けず」「カケヅ」「カケズ」などと表わされている。周辺では鳥のカケスのことを「カゲス」と呼んでいるので、掛津山はカケス山とも思われる。
しかし古くからアイヌ系の人々が「カゲス山」と呼んでいたとすれば、カケスのことではないだろう。
掛津山はアイヌ語でカリウシケシ kari-us-kes と表わし、「カリウの端」を意味する。
苅尾山の北東の掛津山は、苅尾山からつづく尾根の端にあたる。
カリウシケシ→カリウケス→カゲス→カケヅ
掛津山の呼び名がいろいろとあるのは、長い呼び名のためかもしれない。
根室にコタンケシ川(コタンの端の川)、サハリン島の東岸の最端のコタンケス(コタンの端)、函館市の先名のウス・ケシ(湾の端)などの地名がある。同じkesでも地域によって方言のように呼び名が違うようだ。
ヌプリ・ケシ(nupuri-kes)は「山の端」「山裾」の意だが、「山岸」の地名は東北地方に多い。
苅尾山は kari-us-nupuri (カリウシ山)
掛津山は kari-us-nupuri-kes (カリウシ山の端)
の意が考えられる。また、西側にカケヅ谷があるので、カケヅ谷の山の意もある。
kenas-kes-kus-nay
ケナシ・ケシ・クシ・ナイ
林・端を・通る・川(の山)
広島県・加計(カケ) |
 |
広島県・掛(カケ) |
 |
千葉県・苅毛(カリケ) |
 |
●比尻山(ヒジリヤマ 聖山)
延宝7年(1679年)の検地差出帳に、家の名「樽床ノ」、腰林「しじり」がある。また、餅の木炉(1794年)の山林名に八幡村、「ししり谷山」とあり、餅の木たたらの炭山として「ししり谷山」があったようだ(『八幡村史』)。
ししり谷、しじり谷は比尻山から下りるカジカ谷のことで、明治の地籍設定の時、「比尻」(ヒジリ)に変更された。
シジリ(シシリ)→ヒジリ→比尻→聖 と変遷した。
コウゾ、ミツマタの皮を剥ぐことを「シジリ」と言い、「語源」とも考えられるが、樽床の芸北民俗博物館の民俗資料に、紙漉きに関するものがないので違うようだ。
北海道の沙流川(サルガワ)はアイヌ語でシシリムカと言い、よく氾濫を起こす河川として、昔から恐れられていたという。沙流は砂が流れるの意だが、流れた砂が河口に堆積し、川を詰らせてしまう。
アイヌ語では si-sir-muka と表わす。「本当の・大地・塞がる」の意だが、「よく・砂が出て・塞がる」の意となる。
シジリはアイヌ語で si-sir と表わし、「よく・砂が出る」の意から転じて「広い・平坦地」の意もある。シジリ谷(カジカ谷)の上部に田形、畝畑の地名があり、平坦地と思われる。シジリ谷はよく砂が出ることによって、谷の上部に平坦地ができたと思われる。
また、呼び名から考えられる地名として以下がある。
shushu-us-ru-nay
シュシュ・ウシ・ル・ナイ
柳の木・群生する・道の・川(の山)
「西中国山地」のシジリ谷(カジカ谷) |
 |
●畳ケ平(タタミガナル)
「西中国山地」に「タタラ」を含む地名にタタラガ谷(阿佐山北)、タタラガサコ(雲月山東)、タタラ谷(天杉山西)、タタラ原(半四郎山西)などがある。鑪(たたら)に関係した地名と思っていたが、どうもそうではないようである。
アイヌ語でタタラはタットル tattar と表わし、その原形は tar-tar-ke-i 「踊り・踊り・している・者(神々の石)」の意がある(『随想アイヌ語地名考』)。
岩がゴロゴロとあるゴーロ帯では、人は飛び跳ねながら歩き、水流は泡を立てて流れる様子をタットルと言うのかもしれない。
tattar は鑪の語源だと言われている。鑪を踏む様子が踊り踊りと似ている。
奥三段峡に畳ケ平(タタミガナル)がある。谷の岩が段々になっているところで、畳を重ねたような様子を表してると思われ、新しい地名のようだ。
「西中国山地」の「畳」地名に畳山、阿佐山の早水越北の畳がある。
北海道にタタミ川がある。
畳ケ平が古い地名であればアイヌ語で
tar-tar-mi ka-na-ru と表わし、「踊り・踊り・清水 上手・水辺・道」の意がある。
東面にバア堀があり、それからの類推は以下。
畳ヶ平(タタミガナル)
tu-wakka-ta-mem-ninar
ト・ワッカ・タ・メム・ニナル
山の・水・汲む・泉池の・丘
最早山はアイヌ語で
mo-yaw-nay モ・ヤウ・ナイ
静かな・小さい・川(の山)
鬱蒼とした原生林だったバア堀から畳ケ平にかけてはゴーロのある湿地帯で、バア堀はブナが溜めた清水が絶えず湧き出る泉だったのかもしれない。その泉の横の道を、縄文の狩人は捕らえた獲物をもって居住地の柴木か小板、板ヶ谷へ帰って行ったと思われる。 |