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サトリキ峠…苅尾山…掛津山…橋山川 2006/3/5
小板橋…サトリキ峠…977P…苅尾山…1123P…サルキ峠…984標高…掛津山…ジャゴヤ谷…小松ケ峠…橋山川…小板橋

■苅尾山(カリウザン・カリオサン)1223.4m:広島県戸河内
■掛津山(カケヅヤマ)1126.1m:広島県芸北

小板 幹線林道
牧場の採草地
サトリキ峠
ロクロ谷
取り付きの尾根 左
八幡村周辺図
977ピーク
鋼のロープが垂れ下がる3.4mブナ
樽床貯水池と恐羅漢山
深入山
稜線方向
比尻山と高岳
掛津山と苅尾山 稜線から
恐羅漢山 稜線西端から
踏み固められた雪道
嶽 八幡高原スキー場 弥畝山
雲月山 柏原山 掛津山 苅尾山下り
ブナ林を下る
大佐山

苔で被われたブナ

4.8mブナ
掛津山

大佐山 柏原山

掛津山 サルキ峠手前
海を渡った隠岐産の黒曜石
ロシヤでも朝鮮半島でも発見された
「島根県古代文化センター」HPから
掛津山南面に広がる植林帯
苅尾山 掛津山登りから
天狗石山 高杉山

山頂リフト 左が山頂
ゲレンデを下る
ヒノキ林を下る
7:10小板橋出発 晴れ後雨 気温−4度

8:25 サトリキ峠
8:50 977ピーク
10:40 苅尾山
11:35 1123ピーク
12:05 サルキ峠
12:15 984標高(峠の車道)
13:10 掛津山
14:25 ジャゴヤ谷
15:10 大規模林道
17:10 小板橋

大規模林道入口

 191号線から大規模林道(緑資源幹線林道)大朝鹿野線へ入ると、別荘地を通り牧場に出る。除雪は牧場のある小板橋まで。冬期通行止の看板のある幹線林道を進む。苅尾山が頭を出している。スノーモービルの轍があり、気温が低いため雪は固く締まっている。雪を被った牧草地を抜けるとサトリキ峠。峠付近は深く掘り下げられ、パワーシャベルが雪の中にあった。ロクロ谷には林道が登っている。ロクロ谷を過ぎてナカノ谷の手前でカンジキを履き、尾根に取り付いた。

 ヒノキ林を登って尾根に出た。右手に林間から掛津山が見え、後には深入山が姿を現す。シジュウカラが近くへやってきて囀る。30分ほどで977ピーク。ピークから少し進んだところで周囲3.4mの大きなブナがあった。周辺が伐採された時、ケーブルの支柱にされたのか、鋼のロープが巻きついていた。支柱にされたので生き残ったのかもしれない。かつては苅尾山南面もブナの鬱蒼とした森であったと想像できる。

 大ブナから少し登ったところで展望地に出た。白く凍った樽床貯水池の先に砥石川山と恐羅漢山、その左に丸子頭と十方山、恐羅漢山と十方山の間に冠山が霞んでいる。近くには深入山の大きな山容。西に比尻山と高岳、東に大箒山から大平山への山並み。飽きることのない展望をカメラに収めた。

 稜線に近づくとブナが多くなる。10時15分、稜線に出た。西の端へ進むと眼下に聖湖を見渡せる。苅尾山へ進むと苅尾山の左に掛津山が見え、雪の中に踏み固めた立派な道ができていた。右に大箒山を見ながら進み、西が開けると目前に八幡高原スキー場、その先に嶽、右に弥畝山が見えてくる。ほどなく苅尾山、先客があった。聞いてみると八幡側からの登山道は踏み固められていたようで、地元の人が雪道を固めたと思われる。

小板の牧場周辺

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 苅尾山は一等三角点、点名は苅尾山(かりおやま)、所在地は大字臥竜山で選点は明治21年だが、平成12年に更新している。
 苅尾山から北東へ1kmの1123ピークは点名刈尾山で四等三角点、所在地は「廣島縣山縣郡八幡村大字東八幡原字刈尾」で昭和27年の選点当時の古い字名のままである。

「カリウ山の初見は、黒川道祐『芸備国郡志』(1663年)である。山川門の項に狩龍山とあるのがそれで、漢文で記されているこの書はカリウ山と呼ばれているこの山に、発音通り狩龍山を当てたものと思われる。…苅尾山の初見は、『八幡村御建山野山腰林帳』(1716年)である。他に、こうつなぎ山、かけつ山、とうせいだおの名が見られるが、苅尾山だけがはっきりと漢字で書かれているのが印象的である」

「歴史的に見ても苅尾山という山名が使われるのが当然と思っていたが、戦後の昭和22年版(5万分の1地形図)より臥龍山に改められているので唖然としてしまった。…それにしても一般の村民の知らない所で、ほんの一部の狂信的な為政者によって、八幡村周辺の山名が変えられたのではないかと、考えざるを得ない。苅尾山は、龍が臥していた所として臥龍山。掛津山は龍が頭をもたせかけた場所として掛頭山となり、比尻山は聖なる場所として、聖山にしてしまったと思われる」(「西中国山地」桑原良敏)。

 以下「西中国山地」にある山名の変遷を列記してみると、
1663年 カリウ山(狩龍山)
      「芸備国郡志」
1716年 苅尾山 
      「八幡村御建山野山腰林帖」
1819年 苅尾山 
      「国郡志書出帳・西八幡原」
      「国郡志書出帳・橋山村」
1821年 苅尾山 
      「国郡志辻寄記録」
1825年 苅尾山 「芸藩通志」

戦前    苅尾山 「5万分の1地図」

広島県統計年鑑の
掛津山・苅尾山の山名変遷
年度 カケヅ カリウ・カリオ
明治14年 - 苅尾山
昭和8年 - 刈尾山
昭和11年 - 苅尾山
昭和29年 掛頭山 苅尾山
昭和32年 掛頭山 臥龍山
昭和33年 掛津山 刈尾山
昭和48年 掛頭山 刈尾山
昭和54年 掛頭山 臥竜山
平成16年 掛頭山 臥竜山(苅尾山)

 昭和32年の統計に臥龍山≠フ山名が当てられているが、その年の統計に「本表は建設省地理調査所作成の10万分の1地形図上に掲載されている山岳名及び標高を掲げた」とあり、そのことから臥龍山≠フ山名になっているようだ。
 平成16年に苅尾山がカッコ付きで記されている。歴史的にみればカリウ・カリオと呼ばれ、苅尾山と表されてきたが、臥竜山はいかにも唐突な感じである。

  刈生≠ヘかりふ≠ニ読み、草などを刈った後に、再び芽の生えること。また、その生え出た所(「広辞苑」)。刈も苅も同じ意味で使われている(「広辞苑」)。

  刈生≠フ地名は長崎県にあり、かりお≠ニ読む。栃木県に刈生田(かりうた)、岩手県に刈生沢(かりゅうざわ)がある。ほかに刈尾(山口県)、苅生(埼玉県)などがある。

 「八幡村史」の村の仕事の項に「しば草刈りは牛馬の飼料として田植後から秋収穫後まで、永い夏中を男子の主とした仕事であった。…毎年刈り取られるので草立が悪く、少量のため刈尾山を越して裏刈尾に盗み刈りに行く人もいた」という。村人から聞いた明治の頃の話と思われる。

「周辺の大佐山、掛津山、深入山、比尻山が採草と放牧のため、山頂が草原になっているのに比べて、昭和30年代までは、全山鬱蒼としたブナの巨木に覆われていた山らしい山であった」(「西中国山地」)とあるが、一部を除いて、タタラ操業の終わった明治以降に茂ってきたものと思われる。

 八幡村には松永タタラ、甲繋タタラ、面谷タタラ、桧谷タタラがあったが、松永タタラの鉄山として「刈尾山、刈尾山の内移ふし」(「八幡村史」)があった。松永タタラは明和2年(1765)から安永6年(1777)にかけて操業している。

 正徳6年(1717)より享保10年(1725)の間、御建山の刈尾山に野山が立25町、横30町(2.7km×3.3km)あった。鉄山鈩のため18年間燃料として薪炭材に伐採され、大部分の山はまったくの荒廃の状態となった(「八幡村史」)。
 刈尾山の東の橋山村側は安政2年(1855)当時は立横20町(2.2km)四方が草山となって、柴草採草地で村民の入会地であった(「雄鹿原村史」)。

 文禄・慶長年間(1592〜1614年)には石州から砂鉄が入ってきているから、タタラ操業はその頃からあったと思われる。タタラ操業時の苅尾山は現在の深入山のような山だったと思われる。

 苅尾山から北東の1123ピークの字名は刈尾≠セが、そこから掛津山へ続く尾根や橋山村側はタタラのため薪炭材が伐採され、また採草地として早くから開かれていたようである。

 村人が草刈を行った後、再び芽の生えた山々の刈生≠見て、八幡村の庄屋が苅尾山≠ニ初めて漢字で表わして藩へ上申したこの山は、文字通り草山だったに違いない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 サルキ峠へ下ると風景は一変する。稜線の道はブナの原生林に入る。4m弱の巨大ブナが林立している。三百年前後、ここで生きてきたブナたちである。幹にコケがびっしりと付いたブナもあった。掛津山の左手に柏原山さらに左に大佐山が見える。1123ピーク手前に4.8mの巨大ブナがあった。遠くから見ても圧倒されるほど大きい。この巨樹を境にブナの稜線は終わる。まるで稜線ブナの守り神のような存在だった。

 苅尾山から1時間ほどで1123ピーク。前方に掛津山の山容が見えてくる。山頂の両端に大きなアンテナ塔が見える。しばらく下るとご夫婦が登って来られた。八幡から林道を通り下の峠から上がってきたという。さらに下ると掛津山の南の裾野に植林帯が広がっているのが見える。少し下ると窪んだところに出る。ここがサルキ峠のようだ。テープが何本か巻いてある。

「サルキ峠は掛津山と苅尾山の最低鞍部(984m)の呼称でなく、これより約400m南の小さな鞍部の呼称である」(「西中国山地」)。
 鞍部へ掛津山へ登る車道ができるまでは、ジャゴヤ谷とキリガ谷を結ぶ径がサルキ峠を通っていたようで、登降路として使われていたという。

カシワの葉 車道峠付近
カシワの葉

 鞍部の車道へ降りると踏み後が八幡側へ続いていた。この辺りから枯れた葉の付いたカシワの木が多くなる。

 八幡原は戦後、開拓団が入植した。昭和21年5月より、千町原、池ケ原、嶽等に入植が始まっている。八幡原団地は入植戸数17戸で入植者83名、長城団地は戸数3戸で入植者58名居たという。開拓は容易なものでなく、現在は二戸が在住するのみとなっている。(「八幡村史」)。

掛津山の標柱

 鞍部から東へ大箒山への展望がある。車道は西へ大きく迂回して掛津山へ登っている。尾根筋を登った。ところどころクマ笹が頭を出している。振り返ると苅尾山の山容がある。あちこちにカシワの葉がぶら下がっている。山頂付近の鉄塔がだんだんと大きくなってくる。鞍部から40分ほどで車道へ出た。山頂への道標があったが、アスファルトが覗く車道を上がった。建設省の無線中継所を過ぎた先に「天然記念物カシワ叢生地」の標柱が立っていた。

 東側の展望地に出ると下はスキーコースだった。賑やかな声が聞こえてくる。天狗石山周辺の山塊が見える。山頂へ進むとリフトが目前まで上がっていた。スキーよりスノーボードが圧倒的に多い。もう遠い昔、スキーで上がったことがあるが、隔世の感がある。芸北国際スキー場は昭和3年に開発され、古くは枯木ヶ原スキー場と呼ばれていた(「西中国山地」)。
 ほどなく山頂に到着。目印のようなものは何もなく、古い木の棒が括り付けてあった。スキーリフトは山頂のすぐ近くまで上がっていた。北側のアンテナ塔まで下ってみたが茂っていて展望はなかった。

 南のアンテナ塔まで戻り、前方に深入山を見ながら、スキーコースと接する尾根を下った。ゲレンデと分かれてアカマツ林を下った。この尾根もカシワの葉が残っている。さらに縦走路から見えたヒノキ林を下って、稜線から30分ほどで林道へ出た。ジャゴヤ谷に架かる橋には1mを超える雪があった。ジャゴヤ谷を降りる林道を下った。林道の下りは雪は湿って重い。林道沿いに石垣の残っているところがある。水田があったようだ。

空城川の民家
小小公神社 小松ケ峠

小小公神社

 40分ほどで消防団の空城ポンプ格納庫の小屋のある幹線林道に出た。除雪してあったのでここでカンジキを外す。空城川に沿って数件の民家があったが、人の居る気配がなかった。小松ケ峠に上がると「小小公神社」と書かれた社があった。「小公」は「松」の略字だろうか。「小松神社」と読むのだろうか。廃屋を何件か過ぎてヨウガ谷落口までくると、ここで除雪は終わり、その先は1mを越える雪道だった。ここで再びカンジキを履く。

 橋山川に沿う長い重い雪道の林道を歩いた。途中から雨が降り出した。スヤケ谷を過ぎ、七人塚原谷に差し掛かるとスノーモービルの轍が引き返していた。固い轍の上を歩きピッチが上がった。幹線道に出てから1時間半ほどで最初の取り付き点まで戻った。雨の続く道をようやく牧場まで帰着した。幹線道に出てから2時間ほどだった。

ジャゴヤ谷を下る

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 掛津山は三等三角点、点名は掛頭(かけず)、所在地は大字東八幡原字掛頭、選点は明治28年で平成11年に更新している。

「山名の初見は1679年の『山縣郡政所村差出帳』と思われる。かげす山とあり、半分草山、半分浅木山と記されていて、この頃より採草地として利用されていたことが分かる」(「西中国山地」)。

 以下、「西中国山地」から呼び名の変遷を並べてみる。
1679年 かげす山
      「山縣郡政所村差出帳」
1716年 かけつ山 
      「八幡村御建山野山腰林帖」
1726年 かけず山 
      「政所村野山腰林帖」
1819年 かけず山、加けず山
           「国郡志書出帳・政所村」
1819年 かけず山 
      「国郡志書出帳・西八幡村」
1825年 カケヅ山 
      「芸藩通志」雲耕村絵図
1825年 カケズ山 
      「芸藩通志」政所村絵図

 雄鹿原側の政所村では(かげす→かけず)、八幡村では(かけつ→かけず)と変化してきたものと考えられる。苅尾山は早くから漢字で表されていたが、かけず≠ェ漢字化されたのは明治5年の地籍設定の時のようだ(「西中国山地」)。

 「産物帳」は、領内の鳥獣草木すべてを書き出したもので、日本に存在していた動植物とその分布を知るうえで第一級史料である。動植物の名称の多くは方言で記されており、近代以降自然環境が激変して しまった今、古代の島根に存在していた動植物を調査する上でも「産物帳」は大いに役立つものと思われます」(「島根県古代文化センター」)。

 「神門郡組下村々産物書出寄帳」(享保20年・1735年)は、現在の出雲市(ただし鳶巣地区を除く)、大社町、湖陵町の産物帳で、当時神門郡は73ヶ村、6万石余からなる大郡であった。その産物帳の山鳥の項に雉子、山鳥、鳩、鷹とならんでカケスと思われるかげす≠ェ記されている。

 カケスは懸巣、掛巣、掛子と書く。スズメ目カラス科で全長33cm(ハト大)ほどで全国の森林に住む。ナラ類のどんぐりが大好物で秋には豊作の樹冠に集まり、どんぐりを食べるのでカシドリ(樫鳥)ともいう。カケスの生活圏はナラ類の植生域と重なっている。カケスの俗称として、がーす、がいす、やまがらす、かぎす、がえす、げげす、などがある。

 青森県と千葉県ではカケスをかげす≠ニ呼んでいる。山口県はかげえす≠ニ呼んでいるようだ。東北弁と出雲弁は似ていると言われるが、かげす≠煖、通項の一つに挙げられる。もっとも現在、出雲地方でカケスをカゲスと呼んでいるかどうか分からない。佐伯郡諸物産物辻寄帳(安永9年・1780)の諸鳥の項にかけす≠ェあるので、山陽側はカケス≠ニ呼んでいたようだ。
 カケス≠含む地名にカケス山(宮城県白石市)、カケスバタ(静岡県)がある。カケス≠含む地名は案外多いのかもしれない。

「掛津山東麓の中峠、たたら原、宮地、遠見峠の四ヶ所より丸山芳人氏によって多数の石鏃が発見され、昭和34年に潮見浩氏により報告された。158点の石鏃の材料は、サヌカイトと黒曜石で縄文時代のものと考えられている。…石鏃の石材がどこから供給され、使用されていたか大いに興味を引かれる。黒曜石は中国地方では隠岐島が唯一の産地である」(「西中国山地」)。

 隠岐の黒曜石が運ばれた主な地域は、島根県は八束郡・邑智郡・松江市・浜田市・簸川郡、広島県は西条盆地、神石郡、呉市などがあり、中国地方北部の海岸地域と中央山岳地帯、一部は瀬戸内側にも運搬されていることが判明している。

 鎌倉時代、正和4年(1314)大内の配下にあった栗栖高基の治世が苛酷であったため、八幡の農民は石見国の福屋氏の治下に入った。そのため栗福戦争で栗栖氏が敗れたが、福屋氏も150年を経た永禄年間に吉川氏に滅ぼされて、再び安芸領に帰している(「八幡村史」)。

 寛政時代の伝承によると、文禄・慶長年間(1592〜1614年)に中国山脈越えの石見那賀郡から山県郡奥山筋に通ずる空山道を開通させ、石見の砂鉄を山県郡側へ運送していた(寛政9年「鉄山諸事一件」)。
 石州から運搬された砂鉄は「中場」という中継所に集められた。「弥畝山北の程原の中場から八幡の中場まで2里、八幡の中場から餅木鈩まで2里」(「戸河内町史」)というから、「中場」は苅尾山、掛津山近辺にあったと思われる。

「掛津山頂の西側は珍しくカシワが多く、この樹を食樹とするハヤシミドリシジミが多い」(「西中国山地」)。「西中国山地」苅尾山の項に森林の鳥の代表的な種としてカケスが挙がられている(「刈尾山の野鳥」)。

 縄文期から近世まで、黒曜石や砂鉄の運搬、治世などを通じて、西中国山地は山陰と山陽の接点として、古くから多くの人々の出入りがあったようだ。

邑智郡桜江町小田と
山県郡芸北町才乙の方言比較

『方言資料叢刊』第3巻 1993
「広島県山県郡芸北町才乙方言の比喩語」
「島根県邑智郡桜江町小田方言の比喩語」
より抜粋(太字は調査項目)

邑智郡桜江町小田 山県郡芸北町才乙
つらら
ナンジョー
とかげ
トカゲ
ふくろう 
ヨズク
とうもろこし 
マンマンコー
どくだみ 
ジューヤク
すみれ
スモートリバナ
動作の鈍い人 
トロイ
嘘つき
センミツ
ほらふき
オーブロシキ
おしゃべり
ベンシ
ぼたもち
トナリシラズ
塩味が薄い 
ミズクサイ
酒に酔ってくだをまく 
グダマク
酒に酔って顔が赤くなる
カジミマイ イッタヨーナ
厚化粧をしている人
シラカベオ ヌットル
毛髪のない頭
キンカ
目を丸くする
テッポーハナータヨーナ
口をとがらす
ツノグチ 

ナンジョー

トカケ
 
ヨズク
 
マンマンコ
 
ジューヤク

スモートリグサ
 
トロンボー

センミツ

オーブロシキ 

ベンシ

トナリシラズ
 
ミズクサイ

グダーマク

カジミマイ イッタヨーナ
 
シラカベ

キンカ

テッポーハナータヨーナ

ツノグチ

 『方言資料叢刊』第3巻(1993年)に邑智郡桜江町小田と山県郡芸北町才乙の方言集がある。上記に比較表を掲げた。島根県邑智(おおち)郡桜江町は、島根県のほぼ中央部に位置し、日本海岸の江津市に約14キロ、浜田市へ約40キロの地点にある。才乙とは直線距離で20kmほど離れている。八幡村から北東へ10kmほどで才乙。
 方言の類似性が多い点からみても、山陰との交流は長く続いていたと思われる。
 西中国山地の人々は早くからカケスのことをカゲスと呼んでいたのかもしれない。

 八幡側にはミズナラ群生地があり、稜線にはカシワの実が多いので、昔からコナラ属の多い山だったのだろう。どんぐりをねらって多くのカケスが集まっていたと思われる。山陰から黒曜石や砂鉄などを運んできた人々はそれを見てカゲス≠ニ呼んでいたに違いない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

苅尾山 小板から

===================================
カシミールデータ
総沿面距離16.2km
標高差557m

区間沿面距離
小板橋
↓ 2.5km
977ピーク
↓ 1.5km
苅尾山
↓ 2.1km
サルキ峠
↓ 1.5km
掛津山
↓ 3.6km
大規模林道
↓ 5.0km
小板橋

 

深入山
恐羅漢山
深入山
嶽 八幡高原スキー場 弥畝山
苅尾山 掛津山
大佐山 柏原山
大箒山
苅尾山
天狗石山 高杉山
山頂リフト
ゲレンデを下る
4.8mブナ
樽床貯水池 稜線西端から
苅尾山南面から
登路(青線は磁北線 青は900m超 ピンクは1000m超)