山歩き

2009/2/8
コウノミ谷

冠山(小塩石山)…塩石山…日入谷 2006/2/11
クス谷…柳打三角点(656P)…789P…小塩石山…塩石山…日入谷冠(838P)…日入谷…クス谷

■冠山(小塩石山 コシオイシヤマ)1004.4m:広島県湯来町
■塩石山(シオイシヤマ)1000m:広島県湯来町

湯来冠山(小塩石山) 田布付近から
日入谷集落 登山口から
登山口東の水内川
クス谷入口
尾根径
尾根を上がるイノシシの足跡
970Pから冠への尾根
イノシシが掘った穴 656三角点手前
柳打三角点(656P)
冠山登山道
970P 左は冠山への稜線
789P
打尾谷集落
山頂稜線の雪壁
山頂直下のブナ
冠山山頂
オリオ谷
池高山
塩石山と日入谷冠
冠山西面
塩石山
ヒノキ林の造形
時々キリに包まれる
日入谷冠
塩石山
日入谷集落
7:50出発 曇り時々雪 気温5度

9:40柳打三角点(656P)
10:30登山道合流
11:10 789P
13:20小塩石山(冠山)
14:20塩石山
15:30日入谷冠(838P)
17:30日入谷
17:40クス谷

 国道433号線をすすんで東西に東郷山や阿弥陀山のある伏谷に入ると左手に大森神社がある。その名の通り、かつて樹齢数百年の杉の森があった。1991年9月の19号台風の被害で森はなくなり、現在伏谷ふれあい公園になっている。

 湯来温泉は大同年間(806‐810年)、傷ついた白鷺がこの地に遊ぶのを見て発見されたという伝承がある。白鷺に由来する温泉は全国に多い。湯来温泉の東にある湯ノ山温泉は大同2年(807年)、和田感応山麓の慶蔵院境内の鉱泉湧出が温泉由来となっているので、この辺りの温泉は長い歴史を持っていると思われる。

 慶長6年(1601年)の検地帳にふろの本≠フ地名があり、風呂屋敷六歩≠ネどの登録があるので、このころには温泉屋敷があったようだ。江戸期には、「多田村温泉」とも呼ばれた。

多田村検地帳(慶長6年 「湯来町誌」)
等級
面積
石高 名請人
ふろの本
田壱反弐畝八分
七斗三升六合 新左衛門
上下 ゆわろ
野畠弐畝拾分
壱斗一升六合 左衛門太郎
中ノ上 ゆわろ
野畠弐畝弐分
壱斗三合 二郎五郎
ふろの本
野畠壱畝弐拾武
三升三合 二郎三郎
上中 ふろの本
田壱畝拾分
壱斗七升七合 小三郎
中上 ふろの本
田六畝弐拾四分
七斗四升八合 九郎右衛門
ふろの本
内畠廿分
四升七合 九郎右衛門
上中 ふろのもと
田五畝六分
七斗壱升四合 八郎左衛門
上中 風呂屋敷
六歩
弐升八合 助右衛門

 寛政9年(1797年)この地に来た岡岷山は、「都志見往来日記」に「橋を渡りて温泉に至る、民家二三十軒も有へし、湯ハ谷川の上にあり…往古より此地湯の湧故を以って地名も湯木と唱るといへり」と記し、湯木で休んだ後、打尾谷の天狗巖、船岩を見て猪の股越から上筒賀に抜けている。

 岡岷山はウツオダニ左岸から見た多田村温泉の絵図を描いている。板を渡しただけの簡素な橋を渡るとウツオダニ右岸に段々畠があり、わら葺の家が10軒ほど並んでいる。西側の道沿いには3軒の家がある。畠の中に「方九尺と六尺はかりの湯壺貳つあり、雨覆ハなし」2.7m四方と1.8m四方の外風呂が二つ見え、その右後に温泉大明神の社がある。

 文久元年(1861年)には湯来、日入谷、来根に87軒448人が暮らしていた(「多田村諸事書附」)。

 明治42年に温泉が開発され、その後一時衰退したが、昭和24年に再開発され、昭和30年国民保養温泉地に指定された。ラドン含有量は世界有数で、神経痛、筋肉痛、関節痛、胃腸病、切り傷、肩こり冷え性などに適応。平成7年、湯来温泉の上流、大峯山山麓に奥湯来温泉が開設された。

 この辺りは東北〜西南方向に湯ノ山断層が走っており、この断層線に沿って水内川が流れている。湯ノ山断層の弱点に沿って湯来温泉、湯ノ山温泉が湧出している。湯来温泉は泉温28.1度、湯ノ山温泉は23.6度。

 明治14年の広島県統計書の鉱泉の項に、和田村の泉名は水内湯、華氏七十三度、浴戸数四、浴客数八百とある。多田村の泉名は未定≠ナ、華氏七十八度、浴戸数0、浴客数百とある。湯ノ山温泉は寛延2年(1749年)に入湯者が7800人あった(「湯之山明神社」HP)というから、湯来、湯ノ山の温泉は江戸から明治に入って衰退した時期があったようだ。

 湯来温泉は石州へ抜ける往還道の要衝にある。国道433号線から湯来温泉を通り、筒賀へ抜ける県道は山県越し石州往還。廿日市から泉水峠、本多田、吉和へ抜ける道(488号線)は吉和村通り石州往還。水内川沿いの433号線は水内筋山県郡大田往還と言い、下村の久日市には太田川に渡しがあった。往還の途中、湯来温泉や湯ノ山温泉に留まる旅人が多かったと思われる。

冠山登山口の道標

 クス谷入口のアスファルト道は崩壊している。登山口からクス谷左岸に降りる尾根を登った。数分登ると尾根筋に踏み跡がある。ヒノキ林を過ぎると松林となる。高度500m付近でクマの足跡が西から東へ横切っていた。さらに少し進むと尾根に沿って雪を深く掘り下げた跡が続いている。ときどき足跡が横へ飛び出している。足跡が少し小さいので子どものようだ。

 足が重たくなった607ピークでカンジキを履いた。林間から冠山北の970ピークから冠山への稜線が見える。足跡は500m付近から656三角点手前まで続いていた。640m付近で、雪の下の土を深く掘り下げていた。どうやら足跡の主はイノシシのようだ。一列に整列して尾根を歩くイノシシの群れを思い浮かべることができる。そこから足跡は東の谷へ降りていた。

 9時40分656ピーク到着。登山口から2時間ほど。四等三角点で点名は柳打(やなぎうつ)、所在地は大字多田字柳打。北側に打尾谷へ降りるヤナウツ谷があるのでやなうつ≠ニ呼んでいたのだろう。柳打付近はスギ林とマツ林で展望はない。

雪に埋まる道標

 植林帯を進み1時間弱でクス谷から上がる登山道と合流した。少し進むと湯来町冠山の道標があった。林間から冠山や冠山北の970ピークが見える。789ピーク手前辺りから湿った雪に深く埋まりピッチが遅くなる。時々片足が深く抜ける。林間から打尾谷の集落が見える。

 林の上に冠山が頭を出している。山頂直下ではじめてブナが現れた。稜線の雪壁を越えると山頂だった。三角点の標柱が立っている。気温2度、北風が強く小さな雪が舞って見通しはない。眼下のオリオ谷と小室井山の南斜面がみえるだけ。西に池高山が見える。池高山はこの辺りの山林所有者の名のようだ。

 冠山の点名は鬼頭、所在地字名は楠谷≠ニなっている。「この山を冠山と呼んでいるのは、ミズヨコロ谷付近の集落のわずかな人達だけで、他の集落ではシオイシ山と呼んでいる。この山が冠山と呼ばれていないことは倉本栄亮氏によって早くから指摘されていた(広島山稜会会報『峠』)。志井、本多田、日入谷では1004.4峯を小塩石山、南の1000m峯を大塩石山と区別して呼んでいる」(「西中国山地」桑原良敏)。

 早々に下山、縦走路を西へ少し下ると前方に塩石山(1000m)と日入谷冠(838P)が見える。冠山西面の尾根は白い雪原になっている。ヒノキ林の尾根を進む。1時間ほどで塩石山、ヒノキ林で展望はない。塩石山を下るとヒノキに雪が張り付いて不思議な造形をつくりだしていた。時々東側からキリが上がりあたり一面白煙に包まれる。キツネが前方の林の間にチラッと見えた。

 冠山から2時間ほどで838ピークの日入谷冠。林間から塩石山が見える。838ピークから東へ進むと岩峯に出て、そこから尾根は下へ落ちている。回り込んで下へ下った。ここで尾根を間違えてしまった。一つ北側の尾根を下るところを南の尾根を下ってしまった。この尾根は谷へ降りており、意外と急峻な谷だった。結局日入谷の南端辺りに降りた。そこから10分ほどで登山口に帰着

 登山口の南側にある善福寺に石塁がある。石塁は本堂の山手に120mに渡って残っており、地元では「日入谷の万里の長城」と呼んでいる。土砂崩れ、洪水から寺を守るためで、江戸後期に門徒の労力奉仕で完成したという。善福寺は元々白砂村の観音山、極楽寺の末寺で、禅宗の寺だった。

「江戸時代。安芸の国の宗教地図は、既に浄土真宗一色に染まっていた。…安芸門徒の寺々は、禅宗など他宗から転宗したケースが多い。うがった見方をすれば、時流への便乗。私の住持する広島県佐伯郡湯来町大字多田の善福寺も例外でない。本願寺が東西両派に分派後の慶長十六年(一六一一年)に禅宗から転宗し、山から里の現在地に移転している」(「洗心書房」HP)。

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カシミールデータ

総沿面距離7.4km
標高差715m

区間沿面距離
クス谷
↓ 1.6km
柳打三角点
↓ 2.1km
小塩石山
↓ 0.7km
塩石山
↓ 1.2km
日入谷冠
↓ 1.8km
クス谷===================================

早合山と熊押峠

 「多田村御留山御用炭卸免許願上書」(宝永7年・1710年)に「はやがうさる山」とあり、御留山を開放して御用炭を焼かせて欲しいと願い出ている。

 「佐伯郡村々御建御留山御建薮」(正徳3年・1713年)に「はやかうさる山」とある。

 「芸藩通志」(文政8年・1825年)に多田村の山林として早郷猿山、小栗山、左礼山、蕨左天山がある。

 早郷猿山は鷹の巣山から灰郷スマモ山にかけての南面、小栗山は大峯山から西大峯にかけての北面、左礼山はされ山で本多田と志井の間の小山、蕨左天山は湯来冠西面を指している。

 多田村の飛郷の項にワラビサデ、熊が杉などがあり、ワラビサデには「往古家数弐軒」とあるので、オリオ谷のワラビサデに住居があったと思われる。熊が杉は折尾谷落口の西面辺りで、壱軒の住居があったようだ。(「多田村諸事書附」文久元年・1861年)。

 「多田村御留山早合山杉元伐免許願」(元治元年・1864)に、見出しは早合山
、覚書は早合猿山となっている。

 「反別諸上納物書上帳」(明治5年・1872)には早郷猿山とある。

 早郷猿山とワラビサデの呼び名を年代順に並べてみる。

1710年 はやがうさる山(炭免許願上書)
1713年 はやかうさる山(村々御建留山)
1825年 早郷猿山(芸藩通志)
1864年 早合山(杉伐免許願 見出し)
1864年 早合猿山(杉伐免許願 覚書)
1872年 早郷猿山(上納物書上帳)

1601年 わらひさて(検地帳 慶長6年)
1825年 蕨左天(芸藩通志)
1861年 わらびさで(諸事書附)
1872年 わらびさで(上納物書上帳)

多田村検地帳(慶長6年) (「湯来町誌」)
等級
面積
石高 名請人
わらひさて
山畠壱段弐畝
弐斗四升 孫九郎
わらひさて
山畠四畝廿分
九升三合 四郎五郎
わらひさて
苅畠三畝
三升 新右衛門

 並べてみると、はやごうは早合とも思われる。蕨左天の左天は当て字だろう。出所が同じ「芸藩通志」の早郷も当て字ではないだろうか。村人が出した杉の伐採願いにある早合が実際の地名を表わしているのかもしれない。

 「はやごう」は「早合、早盒、早具(はやご)、紙筒」などと表す。早合は火縄銃の射撃の速度を上げるため、玉と火薬をセットしておく筒のことを言う。長篠の合戦(1575年)で登場している。

「日室村(多田村打尾谷)へは、建久年間(1190〜99年)平家の残党高野彦左衛門が入り込み、弓猟を本業として大原山・猪股山を猟場にし、早合山・猿山を薪山にしていたという伝承がある」(「湯来町誌」)。

 打尾谷はウツオダニと呼ぶ。ウツは獣の通り道の意があり、打尾谷は獣の多い谷だったと思われる。打尾谷の奥のイロナシ谷の水源には熊押峠があり、熊の通り道だったようだ。

 戦国期の郡山合戦(1540〜41年)には水内郷(多田・菅沢・和田・麦谷・下)五か村の者は毛利方について合戦に参加した。
 山里一揆(1554年)では山里郷(佐伯、吉和、白砂)が陶晴賢と結び毛利軍に手向かったが全滅した。
 厳島の合戦(1555年)で毛利軍が陶軍に大勝した後、湯来地方の村々は毛利の配下に入った。中世初期から近世初期ごろまでに建てられた五輪塔が多田村に七基残っている。

 湯来地方は近世には農業中心になり、作物を荒らす鳥獣対策に力を注ぎ、狩猟は専業から副業に変わっていった。当時の生息鳥獣に猪・鹿・狸・狐・狼・兎・鼠・熊・羆・貉(アナグマ)・雉子・鳩などがいた。
 鳥獣対策は鳴子、空砲、鳥もち、網、罠、落とし穴、鉄砲などがあった。

 広島藩の「雉子鉄砲札運上」「鹿鉄砲札運上」は猟銃の鑑札に対する税で、元和6年(1620年)から始まり、一挺につきそれぞれ、五匁、十四匁を課した。

 寛政6年(1794年)の多田村の鉄砲数は猟師鉄炮7(専業)、猪鹿威鉄炮34で計41挺。
 天保8年(1837年)、猪鹿の被害を防ぐため3150人の農民を動員し、1053個の落し穴を掘ったという(「多田村猪鹿防方御願」)。
 多田村の割庄屋小田新七ほか4名は文久元年(1861年)に猪、鹿の被害を防ぐため「威筒御鉄砲三拾挺」の貸し下げを願い出ている。

湯来地方の鉄炮所有数と鉄炮札
村名

鉄炮数

鉄炮札 年度
猟師筒 威筒 札数 札銀
白砂 5 21 26 鹿鉄炮1
雉鉄炮4
14匁
20匁
寛政4
1792
葛原 2 2 4 雉鉄炮2 10 宝暦元
1751
上伏谷 3 16 19 雉鉄炮3 15 文政2
1819
下伏谷 2 9 11 鹿鉄炮1
雉鉄炮1
14
5
宝暦12
1762
多田 7 34 41 鉄炮7 30 寛政6
1794
菅沢 - - - - - -
和田 5 22 27 鹿鉄炮1
雉鉄炮4
14
20
宝暦元
1751
麦谷 5 22 27 鹿鉄炮2
雉鉄炮3
28
15
文化10
1813
2 19 21 鹿鉄炮1
雉鉄炮1
14
5
宝暦12
1762
合計 31 145 176 鹿鉄炮6
雉鉄炮18
鉄炮7
84
90
30
 
 
猟師鉄炮請主人名帖(下村・文化7年1810年)
種別 筒長
玉目
持主
猟師鉄炮 弐挺 三尺四寸
弐匁七分
喜三郎
弐尺六寸八分
壱匁五分
同 壱挺 三尺弐寸弐分
弐匁四分
浅右衛門
威鉄炮 壱挺 弐尺八寸五分
弐匁七分
藤門
同 壱挺 三尺
三匁五分
仁三郎
(「湯来町誌」)

 芸北民俗博物館にある水没した樽床集落の狩猟用具の中に、弓、やり、火縄銃、玉をつくる道具などがある。

 猟師は竹筒に弾と火薬を入れて、たすきがけ(たすき早合)にして火縄銃をつかっていた。落し穴に落ちた鹿や猪を槍や銃で射止めていたようだ。

 奈良県十津川村では熊を圧し潰して捕る仕掛けを熊圧し(クマオシ)と言う。古事記に登場する押し罠押機≠ヘ奈良県宇陀の話で、押し罠の歴史はかなり古いと思われる。

 高知県大川村に猪をとる猪圧(シシオシ)がある。小さな丸太二、三間のものを組み合わせて数百貫の石を積み、引落しの仕掛をしてある。七人の武士が引落しに触れて圧死する事故が起きていて、圧し罠の破壊力を物語っている。

 圧しの仕掛けは地方によってオシ、オセ、オソ、ヒラ、ビラと呼んでいる。オオモノビラ(山形県小国町)、ビラオトシ(秋田県阿仁町)、熊オソ(新潟県三面)、ヒラオトシ(長野県秋山郷)、熊ビラ(山梨県奈良田)、オセ(岐阜県白川村)など。

 女鹿平山の「ヒラは獣を取る装置、または山の側面や斜面を表わす地形方言…鹿を取る装置がしかけてある山、あるいは鹿が多く住んでいる場所という意になる。いずれにしろこの場所に鹿が多かったのは事実であろう」(「西中国山地」桑原良敏)。

 女鹿平山南面の半坂遺跡から鹿の落し穴とみられる土壙が発掘されている。鹿落、猪落の地名が西中国山地にあるが、落し罠の名残りと思われる。外に「西中国山地」にある獣と狩に関係する地名として、猪子山越(畳山)、クマノウツ谷(千両山)、クマノアナ谷(向半四郎山)、シシオチ滝(大箒山)などがある。

 熊押峠は「西中国山地」では30km西の平家ヶ岳の東にある。天狗石山の西側に四等三角点、熊押(クマオシ)、岡山県鏡野町に熊押し滝がある。
 西中国山地には案外熊押地名が多い。おそらく圧しの仕掛け罠を使っていたと思われる。熊押の地名は全国に散見される。

 「芸藩通志」(1825年)多田村の産物に熊羆(くまひぐま)、貉(むじな)、香魚(あゆ)、紙、材木、板枌(いたそぎ)、炭薪とある。
 隣村の産物は以下のとおり。
(葛原村)鶯・紙
(白砂村)梅草・蝿取草・鶯・紙
(上伏谷村)紙
(下伏谷村)紙
(下村)麻・香魚・材木・板枌・炭薪
(麦谷村)石炭・鼯・香魚・材木・板枌・炭薪
(和田村)熊羆・貉・鼯(のぶすま)・香魚
(菅沢村)材木・板枌・炭薪・香魚

 「芸藩通志」では和田村と多田村に熊羆が産物として挙げられている。

 「佐伯郡村々御建御留山御建薮」(正徳3年・1713年)に、はやかうさる山は「立三拾丁 横六丁 此木数凡弐千五百本 廻三尺より弐尺迄 栗、外杉一本 廻壱丈、樅弐本 廻6尺、雑木 廻壱八九寸以下」とある。
 鷹ノ巣山から灰郷スマモ山(字名色梨)の南面、3300m×650mの間に周囲60cmから90cmの栗の木が2500本あったというから、早合猿山は栗山だったようだ。

 わらびさで山は「立6丁 横三丁 此立木栗雑木 廻り一尺四五寸以下」とあり、650m×330m四方に栗の若木が多くあったようだ。
 享保元年(1716年)に鷹ノ巣山の北側は杉、樅、栂、松、栗、スマモ山の北は栗、小松の山だった(「筒賀村史」)。

 オリオ谷の栗谷郷、ワラビサデから筒賀境の鷹ノ巣山に掛けては栗の木が多く、この栗をねらって熊や猪が集まっていたに違いない。

 かつて、ウツオダニ水源帯の色梨谷や熊押峠の獣道に、重しを乗せた罠や落し穴を仕掛け、熊や猪、鹿を追って、たすき早合を肩に掛け、奥山へ分け入る猟師たちが居たように思われる。

 

善福寺の石塁説明板
善福寺石塁 寺を守るように山手に続いている。
湯来温泉と湯来橋(多田村温泉図) 
岡岷山はこの辺りから見た絵図を残している。現在の石橋の位置には中央に木の橋げたがあり、板を渡しただけの橋だった。
建物があるところは段々畠でその後に温泉小屋があった。
田布から見た冠山
塩石山と日入谷冠 湯来冠南面から
登路(青線は磁北線 青は900m超 ピンクは1000m超)
黄破線は湯ノ山断層線(青は900m超 ピンクは1000m超)