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カレイ谷

カレイ谷…七村峠…安蔵寺山…イゲン谷 2005/12/4
笹山…カレイ谷…七村峠(三葛峠)…登山道(高鉢山分れ)…打原山…寺床…安蔵寺山…イゲン谷…県道…笹山

■安蔵寺山(アゾージヤマ)1263.2m:島根県日原町

笹山集落と七村峠(三葛峠)
ヤマメ養殖場
苗を植えたワサビ田
カジヤ谷分岐付近
ワサビ田跡 カジヤ谷
カジヤ谷
カジヤ谷
県道189号線 安蔵寺山登山道方向 七村峠から
高鉢山分れ
打原山
大ミズナラ
芦谷分岐
1257ピーク付近
寺床
寺床の説明板
安蔵寺山手前の木の階段
安蔵寺山山頂
高尻・伊源谷分岐付近
尾根径を下る
大天狗岩
伊源谷
新・旧分岐先の木の橋
手前が登山道入口 左は県道へ 林道は上へ延びている
伊源谷橋と紙祖川 右は三葛小学校跡
7:05笹山出発 曇り後雪 気温3度

9:00七村峠
9:35高鉢山分れ
9:50打原山
10:05 1111ピーク
10:25 1191ピーク
10:50 1257ピーク
11:00寺床
11:15安蔵寺山
11:30高尻・伊源谷分岐
12:50林道
13:35県道42号線
13:55笹山

笹山橋

 笹山集落の先に七村峠が見える。県道42号線の笹山橋へ林道が降りている。カレイ谷に架かる笹山橋に加令谷川と表示してある。

「吉田茂樹著『地名の由来』によると、西日本でカレイ谷、東日本でカルイ沢と呼ばれている所は、水の枯れやすい谷、沢の意で、枯井谷と書くのが正しいという」(「西中国山地」桑原良敏)。
 カシミールでよみのかれい≠検索すると、「かれいがわ、カレイ沢、王余魚沢、王餘魚谷、佳例川、嘉例川、枯井谷、狩居川、神洗川(広島県)、餉川」などが全国にあり、いずれもカレイと読む。

フユイチゴ

 林道入口に「水産動植物の採捕禁止区域」の看板がある。カレイ谷右岸の林道を上がるとヤマメの養殖場がある。ヤマメの稚魚がたくさん跳ねていた。林道沿いにフユイチゴが実を付けている。口に含むと甘酸っぱい。スギ林を歩いていくとカレイ谷右岸に苗を植えたワサビ田が見える。20分ほどでタキノ谷落口付近、島根県遺跡データベースではこのあたりに木地師の墓がある。周辺を探してみたが分からなかった。林道沿いにホオズキの橙の袋が残っていた。林道左の小谷に古いワサビ田の跡がある。

林道沿い 小さい谷のワサビ田跡

 30分ほどで林道終点。終点から径が上がっている。終点を谷沿いに進むと火の用心≠フ看板があり谷は分岐する。左はアシ谷乗越へ、右はカジヤ谷。分岐付近にはタタル床鈩跡がある。カレイ谷を渡ってカジヤ谷へ入った。カジヤ谷の入口付近には小谷鈩遺跡がある。
 小滝を越すとワサビ田が現れる。苔むした石垣が残っているが大分前から使われていないようだ。谷を上がり小さなゴルジュを越えるとさらにワサビ田が続く。結局、ワサビ田は峠の下辺りまで続いていた。崩壊したワサビ田を超えて水源帯に入り少しササを漕いで、笹山から2時間ほどで七村峠へ出た。峠は風が強く、県道189号線の安蔵寺山登山道の方向は雪が舞っていた。

カジヤ谷上部のワサビ田跡

「七村より笹山へ越す峠は十年前から下刈りをやめてしまったので峠付近の道は消失している。この峠を七村側では三葛峠、笹山では七村峠と呼んでいる」(「西中国山地」)。
 この峠越えの道は、生活道として人々が頻繁に行き来した時代があった。七村から炭を担いで、あるいは奥山へ狩りに、あるいは祭りで峠を通って笹山や三葛へ抜けたようだ。

「12、3才頃、朝早ようから親に連れられて、三葛から炭をかるうて町へ出よった。…わしゃ、狩もする。猪、熊、なんでもやりよった。シシは近頃人里へでるが、昔は奥山しかおらんかった。熊もそうじゃった。…近まわりの祭りにゃ、山を越えて行きよった。楽しみでなあ。皆で連りょうて行きよった。好きな女娘でも出来たりゃ、朝むすびをこしらえて山を越えて会いに行きよった。向こうの親も認めてくれとった。男がおらん年頃の娘ちゅうなあ、親も反対に心配じゃったんじゃろうよ」。((「高津川水系の環境を考える」フリートーキングから 平成13年11月10日 薫85歳)。

上下二段の道標 打原山

 七村峠から県道を少し上がるとササで覆われた尾根に上がる径があった。右手に林間から燕岳と打原峠が見える。オオウラジロノキの実がたくさん落ちている。七村峠から15分ほどで高鉢山分れ。さらに15分ほどで打原山。山頂付近はスギの大木が多い。ここから道標は上下二段になっている。2mを越える積雪期には道標の頭だけが覗いているだろう。道標に七村峠となっているが打原峠のことだろう。打原峠の道標は打原となっており、七村峠の標示はない。打原峠は、奥谷では七村峠、七村では横道峠と呼んでいる。打原山はウチワラギ≠ニ呼ぶ。

「打原山は七村の呼称である。七名の共同所有の山なので七人持山とも呼ばれているが、奥谷、笹山では通じない」(「西中国山地」)。

安蔵寺トンネル分岐
大ミズナラ

 打原山から少し進んだ大岩に林班界標≠ニ書かれた地籍調査の標柱がある。スギの尾根道を進む。大きなブナもところどころある。15分ほどで1111ピーク。西風が強い。道標が一部壊れ、スギが倒れていた。ピークから少し下ると安蔵寺トンネル分岐。さらにその下の鞍部に大ミズナラがある。樹高30m、周囲4.88m、樹齢600年で島根県で一番大きいミズナラと説明板にある。十方林道の細見谷沿いにはさらに一回り大きいミズナラが多い。打原峠にあるのと同じ弐の塚≠ニ書かれた石柱がある。
 少し進むと安蔵寺山ブナ林の説明板がある。倒れた大木の横の登山道は白み始めている。強い西風に雪が舞う。途中、道標やアシオスギの説明板がある。1191ピーク辺りから登山道は白く化粧し始める。ピークから鞍部へ下りるとアシ谷乗越、芦谷口への道標がある。

アシ谷分岐

 芦谷分岐を過ぎると雪風がますます強くなり、登山道の雪も多くなる。雪煙で見通しは無い。1257ピーク付近から中峰を通って10分ほどで寺床。11:00、雪の積もった寺屋敷跡に着いた。参の塚≠フ石柱の文字は雪が張り付いて見えない。寺屋敷跡の説明板がある。説明板では「昔、ここには安蔵寺山の名前の由来となった安蔵寺というお寺があったと言われています。ところが大きな山崩(つえ)があり、押し流されてしまいました」とある。

 山崩れで押し流されたとなっているが、この辺りは緩やか稜線なので山崩れが起きるような地形ではない。「吉賀記」(1804年 吉賀地方の地理歴史について記述)では寺は焼失している。安蔵寺≠ノついては「西中国山地」に詳しい考察があるので以下要約してみよう。

 寺床に安蔵寺という寺があったということから名付けられたが、実際に寺があったかはっきりしない。「三葛小誌」(渡辺友千代著)によると傭兵が五・六十人もいたというから規模の大きな寺だったようだが、寺跡の土台石らしきものも残っていない。

 寺の存在を示す資料は「吉賀記」が唯一で、「安造寺山、野火入て一寺焼失」と「吉賀記」の書かれる400年前に火事で焼失している。
 「石見八重葎」(1816年 石見の代表的な地誌)は「阿増寺山」と当て字になっている。
 この山は確かにアゾージ山、アンゾージ山と呼ばれている…安蔵寺はアゾージの単なる当て字であり寺院はもともと存在しなかったのではなかろうか。
 島根・山口県境の大将陣山は島根県側ではアゾージ山と呼ぶ。アゾはアゼ(畦)の転訛で境目を意味し、ジは土地の意である。アゾージ山は畦地山で、国境とか郡境にある山を意味する。安蔵寺山は鹿足郡と美濃郡の郡境にある。アゾジ山はもともと郡境、国境の山の意であり、安蔵寺という寺のあった山の意ではないというのが筆者の大胆な結論である(「西中国山地」)。

 島根県遺跡データベースでは寺床が「安蔵寺寺床跡」として登録されているが、この遺跡についての遺構、遺物、調査、文献は示されていない。

 カシミールで「あぜち」を検索すると、鳥取県倉吉市と岡山県真庭市の県境の蒜山高原に「アゼチ」という1116m峯がある。この「アゼチ」は「畦地」かもしれない。「畔地」は新潟県、「畦地」は広島県熊野町、岡山県高梁市、井原市、三重県、新潟県上越市、群馬県、三重県にある。カシミールの検索に出ないあぜち≠フ地名が全国にかなりあるようだ。

 ネットであぜちやま≠検索すると、島根県宍道の毛利元就が陣を進めた「畦地山」、山口県宇部市、岡山県賀陽町の「畔地山」がある。畦、畔は土を盛り上げて作った、田と田の境を意味し、境一般に転じたと思われる。ネットで安蔵寺≠検索すると、2件だけだった。「佐賀県鳥栖市水屋町字安蔵寺」と「半七捕物帳」(岡本綺堂)の「狐と僧」の話に出る安蔵寺≠ナ読みは分からない。

山頂手前の道標
安蔵寺観音
高尻・伊源谷分岐

 吹雪く中、安蔵寺山への木の階段を登った。山頂手前に高尻、三葛口、展望所への道標がある。山頂は吹雪きで何も見えない。二等三角点は雪を被っていた。下の安蔵寺観音へ降り、岩陰で休んだ。観音様は新しく作られたもののようだ。
 早々に山頂を下った。5分ほどで展望所に出た。木の台があり、鈴ノ大谷山や小五郎山を展望できるようだが、吹雪いて何も見えない。ここで径は高尻とイゲン谷に分岐する。高尻側へは踏み跡があるが、イゲン谷へはササと雪で径が見えない。中国自然歩道の説明板の横に匹見側 伊源谷へ≠ニ微かに読める道標があった。その方向の笹の下に踏み跡があった。

新・旧分岐
登山道入口

 東の尾根の旧ルートを下った。ササで覆われた径は下りるにしたがってはっきりしてくる。ところどころテープが巻いてある。下りの雪道は滑りやすい。何度か滑った。二つ目の大岩の陰で少し休み、その先に大天狗岩休み所≠ニ書かれた札が下がっていた。その上に雪の大岩がそそり立っていた。

 しばらく下りスギの樹林帯に入ると径は歩きやすくなる。大分くだったところで伊源谷の水音が聞こえてくると樹林帯を抜け、谷が近くなる。左岸へ渡ってしばらく谷沿いを下ると新ルート分岐。新ルートは中峰付近に出るようだ。そこからほどなく木の橋を渡って右岸に出るとまもなく林道。伊源谷の呼称はこの谷の中流に住居のあった寺田家の屋号であるという。

 林道はUターンして登山道入口からまだ上に延びている。入口に安蔵寺山への道標がある。林道を下った。雪の中からマムシグサの赤い実が頭を出していた。スギの植林帯の林道を進む。林道分岐に安蔵寺山への道標があり、鉄の橋を渡って林道は伊源谷左岸を下りる。

 県道手前で六十前くらいの地元の人が着替えをしていた。聞いてみるとワサビ田で苗植えをしていたと言う。雪の日に厳しい作業だろう。「いつもは9月に植えるのだが遅くなってしまった。わさび漬けにして出荷している。三葛で300年ほど続くワサビ農家だが私の後、続ける者がいない。土砂でワサビ田が崩れると直すのが大変。広高谷にもワサビ田を持っている。カレイ谷のワサビ田は随分前にやめるている」と話を伺った。

 そこからほどなく昭和41年竣工の伊源谷橋を渡って県道へ出た。林道に出てから40分ほど。左手にすぐ三葛小学校跡の夢ファクトリーみささがある。小学校跡から20分ほどで笹山へ帰着した。

三葛小学校跡 夢ファクトリーみささ

 三葛小学校は明治8年(1875年)11月に西村小学校三葛分教場として創設され、昭和16年4月に匹見上村三葛国民学校と改称した時期が児童数81名で最も多かった。平成11年3月20日、児童数3名の時に124年の歴史を閉じた。この間700名の卒業生を送り出している。

 三葛小学校のホームページがまだ残っている。その中に「わさびと環境」というコーナーがあるのでその一部を紹介しておこう。「三葛も昔は、広葉樹ばかりでしたが、木材活用のため、多くの広葉樹が明治・大正時代に切られました。そのため、地力が弱くなり、わさびが育たなくなったそうです。三葛では今でも各戸に一つはわさび谷を持っていますが、その多くは自然にまかせたままのものです。栽培が難しくなったからだと思います。でも、最近では昭和・平成時代と育ってきた広葉樹のおかげで、地力がもどってきたとのことで、元気なわさびがとれるようになってきているということです。とてもうれしいです」。

 現在、小学校跡は地域間交流の場として平成12年6月「夢ファクトリーみささ」として生まれかわった。

カシミールデータ
総沿面距離14.2km
標高差821m

マムシグサ

区間沿面距離
笹山
↓ 3.4km
七村峠(三葛峠)
↓ 1.0km
高鉢山分れ
↓ 0.4km
打原山
↓ 3.5km
安蔵寺山
↓ 0.2km
展望所
↓ 4.0km
県道42号線
↓ 1.7km
笹山

 

ワサビ田 カレイ谷
カジヤ谷
カジヤ谷
カジヤ谷
カジヤ谷 ワサビ田跡
カジヤ谷
七村峠から安蔵寺山登山道方向
高鉢山分れ
打原山
安蔵寺山登山道 1111ピーク手前
大ミズナラ
芦谷分岐
1257ピーク
寺床
安蔵寺山
安蔵寺観音
雪の展望所
大天狗岩
雪の尾根
伊源谷 渡渉地点付近
分岐の木橋
紙祖川と三葛小学校跡
 
立岩山の立岩から展望(2005/10/9)
登路(青線は磁北線)