8:15出発 晴 気温8度
9:35高鉢山
10:10七村峠(三葛峠)
10:55登山道
11:15打原峠
11:50燕岳
12:55中国自然歩道
13:20山神橋
金火箸橋付近の標識 |
|
小原川に架かる金火箸橋(カネヒバシバシ)を渡って県道189号線を進み、谷が迫って七村川が右へ曲がるところにガナアニ滝がある。変わった名称だが、由来は分からない。
しばらく谷を進んで開けたところに水田があり、その先から七村の集落が現れ始める。七村は高鉢山、七村峠、打原峠、燕岳に囲まれ、隠里のような奥まった所に位置している。村は七村川に沿って細長く続いている。
七村川は小原川合流点からオソゴエ谷入口までで、河川延長4.00km、流域面積6.50㎢というから、川幅は平均で1.6mほどの小さな川である(「島根県川データ」)。
集落に車のある家があったので何軒か住んでおられるようだが、廃屋の方が多い。
1960年には35世帯118人が住んでおり、匹見小学校の七村分校があったが1973年3月に閉校している。1960年5月には2学級5人の児童がいたという。
「七村も昔は栄えたもんよ。人もようけえおったなあ。今は数軒になって寂しいもんじゃが。当時の七村は初めの頃は、砂鉄(たたら製鉄)が採れよって、それを営むところが数軒ありよった。それから、木材(山林事業)に移ったんよ。木材、炭、枕木、みつまた、こうぞの生産も盛んじゃったなあ」(「高津川水系の環境を考える」フリートーキングから 平成13年11月10日 花子85歳)。
七村の地名の由来は、奈良から来て当地に住んだ木地師が開拓したので、奈良村というようになり、それがなまって七村と呼ばれるようになったといわれている。島根・広島県境に原始林が茂っていることから、七村・三葛・広見などでは木地師が居住していた(「島根大学HP」)。
カシミールで検索すると、七村から南西へ17kmのところに六日市の七村がある。外に鹿児島、富山、秋田に七村がある。奈良の地名は全国に多い。安蔵寺山の南に奈良原があり、白旗山の東に木地屋の墓がある。「六日市地域には、1647年〜1835年まで約60軒近くの木地屋が住んでいたようである」(「石西の今昔」HP)。
|
|
「緑資源幹線林道 波佐・阿武線 匹見・柿木区間」の標識がある。昭和62年に大規模林道の波佐・阿武線の七村地域を開設している。中国自然歩道、燕岳登山口の道標は倒れて、立てかけてある。
ほどなく道が分岐し、右は中国自然歩道へ、左は安蔵寺トンネルへ抜ける。分岐の少し先に七村川に架かる昭和62年12月竣工の山神橋がある。そこを出発地点とした。
山神橋から県道を上がると最初の谷がオソウゴエ谷(「西中国山地」)。オソウゴエは「獺越」と思われる。オソウゴエ谷左岸に石積があるのでワサビ田でもあるようだ。県道から打原峠と燕岳が見える。
その次の高鉢山から降りる無名の谷を上がった。ここも谷に沿って石積がありワサビ田になっている。右岸に踏み跡がある。径にタヌキと思われるため糞があった。途中から索道が降りているが錆び付いている。30分ほどで県道へ出た。「ちぐさ索道」が県道まで通っているが使われていないようだ。県道を渡って谷へ入るとワサビ田がまだ上へ続いている。高鉢山下の900m付近までワサビ田だった。
「ワサビは傾斜がきつく、水量の豊富な谷で、江戸時代後期から栽培され、近代には匹見ワサビの名が京阪神地方で有名となり、1937年には美濃郡生産高の95%を占めていた」(「島根大学HP」)。
「谷のワサビ田に登るのに植田さんは三十キロの苗を背負い、休みなしで一時間近く歩いた、その苦労も今は昔話になった。ワサビは一九九一年か九二年にやめたという。中国産も入り、相場は下がる一方。ワサビ産地、匹見もだいぶ細ってきた。当時(1984年)、二百三十戸あったワサビ農家は今は百五十戸。高齢者が次々とやめ、規模も小さくなった。販売額は下がり続け、この十年余りでも、八八年の一億一千万円が九九年には五千万円に落ち込んでいる」(中国新聞HP 2002/9/24)。
ちぐさ索道 県道沿い |
|
高鉢山山頂 |
|
1時間余りで山頂へ着いた。尾根にササが茂っている程度で歩きやすい谷だった。山頂には雨量データを送る七村中継局がある。中継局の柱に1991年9月の「益田山ぼけ会」の札が掛かっていた。林であまり展望はない。
山頂から西の尾根に踏み跡が続いている。林間から打原山や燕岳が見える。踏み跡に沿って比較的新しい赤テープが巻いてある。県道に近づくとササが大分茂っている。20分ほどで県道へ出た。そこからほどなく七村峠(三葛峠)に着いた。
峠手前からカレイ谷方向への展望がすばらしい。冠山から茅帽子山への山稜が正面にある。峠に広場があり、広場の端から七村や北側への展望がある。広場は大規模林道工事で出た残土を埋めた跡のようだ。昔の峠を示すものはなかった。
「七村より笹山へ越す峠は十年前から下刈りをやめてしまったので峠付近の道は消失している。この峠を七村側では三葛峠、笹山では七村峠と呼んでいる。地図にある高鉢山は七村でもそう呼んでいる」(「西中国山地」桑原良敏)。
登山道の道標 |
|
オオウラジロノキの実 |
|
県道を少し上がって登山道から下りる谷を登った。谷はミズナラの大木が多い。20分ほどで道標のある登山道へ出た。道標は安蔵寺山まで3.8k、奥谷口まで1.4kとあり、高鉢山分かれとなっている。三叉路になっており、県道189号線へ出る尾根道があるようだ。
打原峠へ進んだ。オオウラジロノキの実がたくさん落ちていた。オオウラジロノキの実はクマが好きな実の一つのようだ。燕岳が林間から見える。途中から登山道に通行禁止の立札があり、尾根を迂回して峠に出るようになっている。20分ほどで打原峠に出た。
打原峠 |
|
地蔵尊 |
|
壊れた石囲 |
|
道標では燕岳まで0.8k、七村口まで2.5kとなっており、柱に中国自然歩道と貼ってある。峠には地蔵尊がある。その横にスギの大木が倒れ、根元に壊れた石囲がある。石囲の横に賽銭が落ちていた。地藏尊は元々、石囲の中にあったようだ。
「打原峠には石で囲った地藏尊が大きなスギの木の下にある。袈裟の朱色が暗い樹林の中でひときわ鮮やかだ」(「西中国山地」)。
峠には新しい意味の分からない石柱がある。「壱の塚」と題し、「安らぎの謎、寺の謎、蔵鋒の謎、早くに冠あり」と謎めいた文字が刻まれている。安蔵寺≠フ謎解きだろうか。
「七村と奥谷を結ぶ峠道は古い径で、この峠を奥谷では七村峠、七村では横道峠と、相互に峠の向う側の村里の名をつけて呼ぶ村人が多い。七村の古老から昔は打原峠(ウチワラダオ)と呼んでいたと教えられた。打原は七村側の峠の下の小さな平坦地の地名だという」(「西中国山地」)。
ツルリンドウ |
|
峠でリュックを下ろすと蟷螂が留まっていた。県道から一緒に歩いてきたようだ。登山道を塞いでいるスギを越えて燕岳へ登った。登山道はヒノキの植林帯になっている。アキノキリンソウやツルリンドウの花がまだ残っていた。20分ほどで山頂に着いた。点名は燕山、三等三角点。正面に今登った高鉢山があり、その山頂の上に立岩山が見える。東側から北への展望がすばらしい。東から茅帽子山、寂地山、冠山、広高山、小郷山、五里山、京ツカ山、焼杉山、恐羅漢山とつづく。
「東面から北へかけての展望はまことに雄大で、苅尾山から小五郎山まで続く広島・島根の県境主稜が障壁の如く立ちはだかっている」(「西中国山地」)。
「燕(ツバメ)の方言として東中国ではヒーゴ、西中国ではツバクロが一般的に用いられている…山麓の横道、奥谷、七村で山名を聞いてみたがツバメ岳、ツバクロ岳と呼んでいる人がほとんどで、ツバクラ岳と発音する人に会わなかった」(「西中国山地」)。北アルプスの燕岳(ツバクロダケ)はツバメが羽を広げた形に似ているのが山名の由来と言うから、彼の地でもツバメをツバクロと呼んでいるのかもしれない。
アキノキリンソウ |
|
西面に廻ると樹林のあいだから上内谷辺りの水源帯を覗くことができる。東面の尾根から中国自然歩道に向かって降りた。しばらく薮を漕ぐとササ帯に変わり、4m前後のヒノキの若い樹林帯に入る。降りるにしたがって背の高いヒノキに変わる。尾根には落とされた枝がたくさん積もっている。高度を下げるに連れて打原峠や七村峠、七村川の谷が迫ってくる。ヤマドリが驚いて飛び立った。
1時間ほどで林道へ出た。林道は上へ続いているが、2万5千地形図にある中国自然歩道の破線道より高い位置にある。林道は回り込んで七村川に沿って下へ降りている。その辺りから自然歩道と合流しているのか、林道が自然歩道なのかよく分からないが、自然歩道は大分茂っている。フユイチゴの実がたくさん生っていた。口に含むと甘酸っぱくておいしい。20分ほどで県道分岐に出て山神橋に帰着した。
七村橋近くの墓所 |
|
県道を少し下った七村橋の手前のイチョウの大木の下に墓所があった。一番古い墓は明治17年だった。先祖代々の墓として今も続いている。県道に沿う建物は廃屋が多い。匹見小学校七村分校の跡を探してみたが分からなかった。紅葉の中に佇む村里を後にした。
カシミールデータ
総沿面距離7.0km
標高差452m
ヤブムラサキ |
|
区間沿面距離
山神橋
↓ 1.5km
高鉢山
↓ 1.1km
七村峠(三葛峠)
↓ 1.7km
打原峠
↓ 0.8km
燕岳
↓ 0.9km
中国自然歩道
↓ 1.0km
山神橋
|