山歩き

三段峡…田代…比尻山…樽床ダム 2005/9/17
餅ノ木…八幡川…横川出合…田代…笹小屋…比尻山(聖山)…十文字キビレ…中ノ甲林道…樽床ダム…八幡川…餅ノ木

■比尻山(ヒジリヤマ)1113.2m:広島県戸河内

八幡川渓谷 餅ノ木付近
八幡川渓谷
左三段滝 90度曲がって葭ケ原へ
三段滝
三段滝の説明板
猿飛
猿飛の渡船場
二段滝
二段滝上部の岩石段丘
左横川川 右田代川 田代出合橋
田代集落跡
奥三段峡 くも渕
中ノ甲林道 笹小屋 右が中ノ甲へ 左は三角点へ
比尻山(聖山)山頂
十文字キビレ 左から餅ノ木、イキイシ谷、中ノ甲
樽床ダム
三ツ滝
竜門
小板川から落ちる出合滝
餅ノ木集落の稲刈り

 

6:35出発 晴 気温16度

7:35三段滝
8:40猿飛
9:20横川出会
10:50イキイシ谷
12:00三角点(奥三段峡)
12:30笹小屋
13:20比尻山(聖山)
14:00十文字キビレ
14:50樽床ダム
16:00餅ノ木
アケボノソウ
餅ノ木口


餅ノ木の石柱

 餅ノ木集落の広場から谷へ降り、モチノキ谷と狼岩山から落ちるナメラ谷の下流に架かる木の橋を渡ると「ツキノワグマ生息地」の看板がある。少し下って八幡川に出る手前に、昭和7年に建てられた「特別名勝三段峡」の石碑がある。それによると大正14年、史蹟名勝天然記念物に指定された。

 三段峡奥の八幡川を下った。葭ケ原から樽床ダムまでを八幡川渓谷という。遊歩道が右岸に続いている。遊歩道は最近草刈をしたようだ。トチの実がたくさん落ちている。クリも落ちている。遊歩道まで流木が上がっている。14号台風で大分、増水したようだ。植物採集禁止の立札がある。

 餅ノ木口から1時間ほどで三段滝。三段滝は峡谷中最大の滝で、展望所の説明板によると、上流へ後退しているという。観光放流しているとは言うものの、パンフレットと比較すると明らかに水量が少ない。ダムがない時代はもっと迫力があったに違いない。三段滝を過ぎると、流れは90度曲がり葭ケ原へ向かう。
 槙が瀬を過ぎてまもなく葭ケ原、猿飛分岐。猿飛へ遊歩道を上がる。10分ほどで横川川へ出た。少し進むと人家の跡のような石垣が残っている。ナツツバキ、コナラ、ミズナラなどの立札が続く。ところどころ台風で谷が崩れ、遊歩道を埋めている。ほどなく猿飛到着。

トチの実

 説明板によると、猿飛は奥にある二段滝の落ち口だったという。二段滝が後退して猿飛を掘り下げた。渡船場へ降りたが、ここからでは猿飛が見渡せない。対岸へ渡った。膝下ほどの深さで水は冷たくなかった。猿飛の右岸、左岸の幅は3mしかない。横川断層が通る猿飛は岩石が粉砕された断層破砕帯が侵食されてできた小渓谷。台風の影響だろうか、渡しの船は高台に固定されていた。

 戻って遊歩道を登り、下りに差し掛かると二段滝へ降りる踏み跡がある。釣り人が使っているのだろうか。二段滝上部へ降りた。二段滝は横川断層の断層崖にかかる滝。

 二段滝は昭和63年7月の豪雨で、上段の滝が壊れ、現在一段になっている。船で渡って二段滝を観賞する対岸は大きく谷が崩れている。しばらく二段滝上部を歩き、へつりのできないところで遊歩道へ上がった。こちらも谷が崩れ、遊歩道を塞いでいる。ほどなく横川川と田代川の合流点、横川出会に到着、少し休憩した。餅ノ木から3時間弱。

マツムシソウ

 三段峡に関する古い記録が幾つかある。
1715年 「戸河内森原家手鑑帳」
1768年 画文集「松落葉集」
 加計の佐々木右衛門正封は、奥山のタタラの経営より得た豊富な情報をもとに、峡内の奇勝を紹介。
1819「国郡志御用に付下しらべ書出帳・戸河内村」。土地の在住者がくわしく峡谷について記す。
1825年 「芸藩通志」戸河内村絵図
1918年 「山県郡写真帖」発行。大島写真館技師、熊勝一(南峰)。
1922年7月 芸備日日新聞に22回連載、「戸河内秘境探検記」。

 三段峡の呼称を考えたのは熊南峰である。「松落葉集」は山県郡の景観について、十方山、苅尾山、深入山を三峨。田代川、小板川、柴木川を三峡。三ツ滝、三段滝、二段滝の三滝としている。「三峨、三段、三峡」の三語より一字ずつ抜いて三段峡と考えついた。
 1923年11月、熊南峰が撮った内務省一行の記念写真が、広島県文化財ニュースに紹介され、三段峡≠フ名称がこの時決められた(「西中国山地」桑原良敏)。

タンナトリカブト

 横川出会に昭和7年に立てた文部省の境界標がある。赤い鉄の田代出会橋を渡って林道へ出た。橋から見る田代川は大岩が転がる渓谷である。林道が出来るまでは、ここから奥三段峡が始まっていた。田代出会橋は1990年2月に竣工している。ここにも「ツキノワグマ生息地」の看板がある。こちらの三段峡入口には通行止めの札が立ててある。

 田代川に沿う林道を進んだ。古い石の楓橋を渡った。日当たりにシマヘビが出ていた。大規模林道の田代橋の下を過ぎると石垣が現れる。この辺りから田代集落が始まる。林道の左下に壊れた小屋が残っていた。作業小屋のようだ。牛小屋谷へ抜ける田代橋を過ぎて、進入禁止の柵を越えて林道終点のイキイシ谷へ到着。

「戸河内町大字横川にはかつて84戸の人家があった。1970年には餅ノ木に1戸、下横川に2戸、古屋敷に3戸の6戸だけとなり、田代・二軒小屋の集落は廃屋となった」(「広島の地質をめぐって」)。

コナラ

奥三段峡三角点

 イキイシ谷落ち口でしばらく休憩。ヤマボウシの赤い実は桃の味がした。イキイシ谷を渡ると道は奥三段峡へ分岐する。踏み跡を登った。道はしっかりしているので迷うことはない。スギの植林帯はいつのまにか、ヒノキに変わっていた。葉の付いたコナラの実や、タムシバの赤い実が落ちている。しばらく登って大岩を越えて、左の谷を見ると石積が残っていた。そこから少し上がると東へトラバース径が開かれていた。イキイシ谷へ下りる径だろうか、東へピンクのテープが続いている。50分ほどで956標高、石の境界石があった。そこから10分ほどで三角点のある965標高。点名は「奥三段峡」。所在地は戸河内中ノ甲279。

 道は三角点から北へ下っている。しばらく下って余り下りすぎるので、少し戻って尾根を笹小屋方向へトラバースした。100mほど進むと道に出た。この道と下った道が下でつながっているようだ。しばらく登って中ノ甲林道の笹小屋へ出た。
 点の記を確認してみると、笹小屋から三角点への道順は尾根沿いに進むようになっている。三角点の西側のササの中に踏み跡があったので、おそらくその径が笹小屋へ抜ける道だろう。いずれにしても同じ道に出ると思われる。

笹小屋

 笹小屋に広島森林管理署の「危険 クマに注意」の大きな看板がある。中ノ甲方面へ少し下ると、奥三段峡へ落ちる出会谷の源流部へ出る。植林帯の中へ水量の少ない出会谷が上がっている。出合谷を登ろうと思っていたのだが、笹小屋から尾根沿いにテープが続いていたので、そちらを登ることにした。

 ピンクのテープは入口からしばらくしてなくなり、踏み跡も消えていた。スギ、ヒノキの樹林帯なのでブッシュはなく、尾根筋を適当に登って行く。大岩を過ぎて100mほどササを漕ぐと三角点のある山頂へ出た。笹小屋から50分ほどだった。昔は展望の良い山だったようだが、今は林で展望はない。西へ回ると僅かに、天杉山だろうか、頭を出している。比尻山は氷河の影響を受けた地形という。

「西中国山地でも聖山(比尻山)と深入山で1965年に周氷河地形が発見された…聖山山頂の平坦地にある角礫は大きい。現在は雑草が生えているが、この山に初めて登った昭和19年の夏は、無毛の赤土の平坦地の一部だけ礫岩が散在しているという異常な光景であった」(「西中国山地」)。

 周氷河地形とは、昼と夜の温度差によって土壌中の水分が凍結と融解を繰り返した結果によってできる特徴的な地形の総称。これは氷河による地形ではなく、氷河が存在した周辺の寒冷地域に見られるものという。久井の岩海も周氷河地形という。
 山頂西に角礫が転がっているが、それが周氷河地形の名残りなのか分からない。

ヒメキマダラヒカゲ

 数分下ると道は高岳へ分岐する。十文字キビレへ下った。少し下ると展望岩があるが、ここも林で展望はない。40分ほどで峠へ下った。十文字キビレは四叉路になっている。南側へ中ノ甲、イキイシ谷、通ったことはないが、おそらく餅ノ木へ下る道がある。イキイシ谷、餅ノ木へは鎖止めがしてある。昔は樽床峠と言ったようだ。

登山口道標

 樽床へ下った。道は荒れているが、オフロード車なら台所原まで行けるだろう。下り道は林で展望が利かない。聖山登山口の道標は山頂まで1113mになっている。離郷者望郷之碑、民俗博物館を通って、1時間ほどで昭和32年竣工の樽床ダムに到着。樽床ダムから高岳や狼岩山は見えるが、比尻山はみえない。

 八幡川へ降りた。右岸の降り口に昭和7年の石柱がある。餅ノ木口、横川出合にもあったので、文部省が昭和7年に三段峡の要所に名勝の石柱を建てたようだ。下るとすぐに三ツ滝。その先はダムだから、ダムが出来る前は急峻な渓谷が八幡へ続いていたに違いない。
 ヤマナシの実がたくさん落ちている。右岸、狼岩山から落ちる貴船滝を過ぎると竜門。岩盤を貫く流水の浸食力の大きさを示している。
 鉄の竜門橋を通って左岸へ渡る。右岸に繰糸滝の細い水流が見える。その先の谷に古い橋げたが落ちていた。霧が瀬のコンクリートの橋を渡ると小板川から落ちる出合滝。出合滝は餅ノ木断層の断層崖にできた滝。この先は餅ノ木まで緩やかな流れが続く。出口付近に水が引いてある。冷たくて美味かった。餅ノ木集落の水田では稲刈りが大分進んでいた。

終点 餅ノ木
 
 
ヤマハッカ
メドウセージ
キバナアキギリ


カシミールデータ
総沿面距離17.0km
標高差586m

ツルニンジン

区間沿面距離
餅ノ木
↓ 5.2km
横川出会
↓ 2.7km
イキイシ谷
↓ 2.0km
笹小屋
↓ 0.9km
比尻山
↓ 1.1km
十文字キビレ
↓ 1.9km
樽床ダム
↓ 3.2km
餅ノ木

 

 

オオバショウマ アキノキリンソウ ホクチアザミ
ツリフネソウ ミヤマママコナ ガンクビソウ
ゲンノショウコ キンミズヒキ ヤマハコベ
ガマズミ ナツツバキ ナナカマド
ヤブタバコ ミヤマシキミ チゴユリ

餅ノ木
八幡川渓谷
八幡川渓谷
三段滝
三段滝展望所

三段滝

猿飛
猿飛渡船場
猿飛
二段滝
二段滝上流
鵜の子
横川川 田代川出合
田代川
くも渕
イキイシノ谷
十文字キビレ
苅尾山
樽床ダム下
三ツ滝
三ツ滝
貴船滝
竜門
出合滝
娘滝
餅ノ木
餅ノ木集落
登路(青線は磁北線) 黄破線は断層線

「ヒジリ」考

「『樽床誌』に記録されている古文書のうち、1679年(延宝七年)および1716年(正徳6年)の頃の古文書には、この山から樽床に流入する谷(カジヤ谷)をシジリ谷としてある。1738年(元文三年)の報徳社所蔵古文書には、これがヒジリ谷となっている。明治になって地籍が設定される時に漢字化され比尻が地籍名としてこの谷周辺の土地に名づけられた。ヒジリを比尻とした経緯については不明である」(「西中国山地」桑原良敏)。

 「八幡村史」をみると「樽床誌」の古文書とは延宝7年(1679年)の検地差出帳のことで、それによると「樽床ノ」と呼ぶ家の名に10人の名請人が居り、その内の「宇兵衛」の屋敷は8名(男4人、女4人)が居り、腰林(私有林)は「しじり谷」となっている。
 
餅の木炉の山林名に八幡村、ししり谷山城山上下とあり、城山とは964.5m峯の小板東樽床境にある論山のことのようだ。「戸河内町史」では、餅ノ木たたら(1794〜1805年)の炭所は餅ノ木南平のほか、小板の城山・新入山・くみヶ平山が指定とある。
 「樽床ノしじり谷」と「ししり谷山」は同じ地域を指していると思われるので、しじり≠ヘししり≠ニ呼んでいたのかもしれない。

八幡村の大字名と小字名(「八幡村史」)
東八幡原(大字名)
小字名
(耕地部)

研屋郷 中郷 民部郷 浮島郷 野地郷 管原郷 大林郷 下林郷 東長者原郷 東上樽床郷 東下樽床郷
(山林部) 掛頭 大平 土嶽 上東 東山 駄原 後が原 臥龍 大林 マス掛 城代 甲繋 長原 城山 道管

西八幡原(大字名)
小字名
(耕地部)
 
西上郷 本坪郷 佛郷 中島郷 新川郷 三島郷 上田郷 五輪郷 木束原郷 鳥落郷 押ゲ峠郷 西長者原郷 西上樽床郷 西中樽床郷 西下樽床郷
(山林部)
二川 森岡  滑 天王 松尾 三島 愛宕 五輪 日高 宮ケ谷 面谷 桧谷 大浴 中ノ谷 嶽
城ケ谷 長者山 長谷 茅野 高嶽 比尻 滝ノ平

 地尻はじじり%ヌみ、ある区域の土地の端の方を意味している。比尻山は八幡村の南隅にあり、そこからシジリ谷が降りている。地尻(じじり)は福島県にある。佛はしじり≠フ読みもある。
 しじる≠ヘ全国方言辞典に、汁を入れないで煎り煮すること(隠岐)、小鍋で煮ること(鳥取)がある。関連語に煎じる(せんじる)がある。

 しじり≠ネットで検索すると、和紙の製造工程にしじり≠ェある。

「しじり」

 岡山県勝田町東谷上地区ではミツマタ(三椏、三叉、三俣)の生産が盛んである。ミツマタの原木は葉が落ちた12月に収穫し、釜で5〜6時間蒸す。次に蒸して柔らかくなった原木を皮と木に分ける。その後、水に30分ほどつけ、皮の表皮(外側の黒い皮)と真皮(内側の黄色い皮)に分ける。この作業を「しじる」(皮をはぐ)という。
 「しじり」が終わると一日以上外に干し、乾いたら4貫を一束にまとめてミツマタ生産組合へ持って行き、そこから造幣局に納める(「勝田町」HP)。
 岡山県のミツマタ生産は20年前は全国一の納入量を誇っていた。皮をはぐための「しじり器」という道具もある。コウゾ(楮)の場合も同様の工程があり、「楮しじり」と呼んでいる(「島根県」HP 八束郡八雲村東岩坂)。

 農林水産省農林水産研究情報センターのホームページに「写真でたどる農機具の発達史」があり、岡山県久世町で収集したしじり器≠ネどの写真と説明がある。
●みつまたしじり器 (岡山県久世町 昭和20年頃 こうぞ・みつまた皮剥ぎ器)
●かじ蒸し器(蒸しコガ) (愛媛県小田町 明治初期〜昭和40年代 こうぞ・みつまた蒸し器)
●三又の皮はぎ(三又皮へぐり機) (高知県大豊町 こうぞ・みつまた皮剥ぎ機)


 ネットで確認できるしじり≠フ使用は岡山県の山間から島根県八束郡にかけての地域である。

しじる≠検索すると、主に鳥取、岡山で使われている方言のようだ。
●鳥取 焼く、炒める、あぶる
●米子弁 スルメを火鉢でじわじわとあぶる
●岡山 炒める
●庄内弁 水などがしみてくる

 和紙製造工程の皮剥ぎをしじり≠ニ呼んでいるのは岡山と島根であり、しじる≠フ方言地域と重ね合う。皮を剥ぐ≠アとと炒める≠アとで意味は違うがしじり≠ニしじる≠ヘ関係あるのかもしれない。隠岐や鳥取では煎じるの意味もあるようだ。

「そぞり」
 石州和紙の製造工程に「そぞり」がある。蒸した原木の皮を削ぐ。石州では原料の先が筒状になる筒剥ぎの方法を行っている。次に、剥いだ黒皮を束にして自然乾燥をし、貯蔵する。「半日以上水に浸けた黒皮をそぞり台の上にのせ、包丁で一本一本丁寧に表面にある黒い部分をそぞります」(石州和紙 久保田HP)。石州では楮の表皮と白皮の間にあるあま皮部分を残す方法をとる。これを「黒皮そぞり」と言う。石州和紙の「そぞり」と「しじり」の工程は同じ作業を表わしているようだ。上川崎和紙(福島県)では黒皮そぞりのことを「かずひき」と呼んでいる。

 石州和紙(石州半紙)は島根県の西部(石見地方)の地域で漉かれている。約1300年もの間、石見(石州)地方では、手すき和紙が漉き続けられてきた。石州和紙(石州半紙)は原料に楮・三椏・雁皮の靱皮繊維を使用し、補助材料としてネリに「トロロアオイ」の根を粘液として使っている(「石州和紙 久保田」HP)。

 和紙の粘材として外にノリウツギの樹皮が使われている。

ソゾリ≠検索すると、「土佐清水市教育研究所」HPの民具の生活用具の中で、篩(ふるい)をソゾリ≠ニ呼んでいる。異物を除去するため篩にかけるが、「そぞり」は皮を剥ぐことだけでなく、選別の意味も含んでいるのかもしれない。


 和紙の歴史は「紙への道」HPに詳しい。以下要約してみる。

「飛鳥時代に紙作りの保護育成の政策を強力に推進し、わが国在来の楮の栽培と製紙を奨励した結果、楮の皮の繊維を用い雲紙、縮印紙、白柔紙および俗薄紙の4種の楮紙が多く製造されるようになった。これが製紙業の始まりであり、わが国の製紙の基礎を築いた。さらに、平安時代に入ると927年(醍醐天皇の延長5年)に『延喜式』が制定され、製紙作業の大綱が定められ、産紙国(製紙地)は42か国に及んでいる記録が残されている。わが国の隅ずみまで紙漉きの製法が伝わったことを示している。
 伊賀・伊勢・尾張・三河・駿河・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・近江・美濃・信濃・上野・下野・若狭・越前・加賀・越中・越後・丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・播磨・美作・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予・土佐・日向・大隅・薩摩の42か国。今日、全国にまたがる和紙の産地の多くは、このころにさかのぼることができる」

 紙の製造法が全国に伝播する中で、「そぞり」も「しじり」も最初は同じ呼び名だったのかもしれない。地方によってそれがだんだんと変化していったのだろう。

 「しじり」「そぞり」作業の地域での呼び名は以下の通り。
 
上川崎和紙(福島県) かずひき アデというそそり台に乗せ、かずひき包丁で削る
千葉県 こうずむき
細川紙(埼玉県) そそり 白皮をソソリという
柚野紙(静岡県) しじり (内藤氏 埼玉、島根、岡山で手すき和紙技術を習得している)
内山和紙(長野県) しかわとり 「節皮取り」がなまったもの
飯田市(長野県) たくり
越中和紙(富山県) たぐり たくり
山中和紙(岐阜県) たくり
美濃和紙(岐阜県) たくり
小原村(愛知県) たくり タクリコとよばれるナイフのような道具で外皮をはぎ取る
深野和紙(三重県) たぐり
越前(福井県) たぐり 手繰皮(白皮)たぐりかわ
黒谷和紙(京都) そろい
横野和紙(岡山県) へぐり
津山和紙(岡山県) しじり
勝田町(岡山県) しじり
樫西和紙(岡山県) しじり 久世町
広瀬和紙(島根県) そじり (島根県能義郡広瀬町)
八雲村(島根県) しじり (江戸時代に越前から技術を導入)
三隅町(島根県) そぞり
津和野町(島根県) そぐり 黒皮をはぐ(そぐる)
高田郡(広島県) そぶり
多田村(広島県) そそり (ソブリという小刀で表皮をけずる 湯来町誌)
佐伯町(広島県) そぼり (そぶりのことをこの地方ではそぼりといった 佐伯町誌)
大竹和紙(広島県) そぶり
徳地和紙(山口県) そぶり
泉貨紙(愛媛県) へぐり
津野町(高知県) へぐり


 芸北周辺の島根県側は和紙の生産が盛んだったようだ。旭町は石州和紙の産地だった所で、江戸時代まで上質の和紙を津和野藩に納めていた。美都町や弥栄村などでは現在も盛んにコウゾが栽培されている。美都町都茂の広兼家は承広元年(1651)より200年間浜田藩のご用紙漉きをつとめてきた。「匹見町においては、江戸初期よりその製造が始まり、農家の冬期副業としてその技術が伝えられてきた。匹見町内に『紙祖』という地名が残っているが、石見半紙発祥の地が、実は匹見であることはあまり知られていない」(「石西の今昔」HP)。

 広島県(安芸国)は芸州紙としてコウゾの生産をしていた。安芸国で平安時代に紙を産したことは「延喜式」(905年)に記されており、 近世には有数の紙産地に成長していたという。明治38年の広島県年報では山県郡のコウゾの生産は作付面積32.4反、収穫高17172貫で比婆、高田に次いで県下三番目、県下の約一割を生産していた。昭和5年、山県郡のコウゾの生産高は19362貫で県下一になっている。県統計書でみる限り、明治30年に山県郡の和紙製造所が98ヶ所で最大になり、その後減少している。

山県郡の和紙製造資料(広島県の統計から 文政初年の数は広島古文書研究会HPから)

年次

和紙製造所数 職工人数 半紙生産高(締)
1締2000枚
文政初年(1818年) 13
明治30年(1897年) 98 550
明治44年(1911年) 24 48 157
大正11年(1922年) 27 32 100
昭和9年(1934年) 11 31 156


 「山県郡は風俗純朴にして、争いを好まず、民産農業を主として、採鉄、炭焼、造紙(かみすき)、採薬、の浮得あり」(芸藩通志 巻五十八 山県郡)とある。

 広島藩内の紙漉は、山県・佐伯の二郡が最も多く生産し、藩全体の約80%を占めていた。沼田・山県・佐伯各郡では諸口・半紙などを主として漉いていた。紙漉の原料となる楮は、田の畦畔、畑の岸などわずかな土地でも栽培できるので各地で盛んに生産してきた。江戸時代中期以降になると楮生産が減少してきたため、増産に努めてほしいと督促している(湯来町誌)。
 
多田村の楮生産高減少状況(「湯来町誌」)
村受負高
宝暦年間(1751〜1763) 2〜3万貫
天保6年(1835) 9395貫
天保7年(1836) 5195貫
嘉永5年(1852) 4700貫
安政6年(1859) 3290貫

 享保12(1727)年の調べによれば、上筒賀村には15人、中筒賀村に63人の紙漉きがいたことがわかる。原料となる皮楮の生産は上筒賀村の方が多く年間およそ2400貫目(9トン)、中筒賀村は1500貫目程度であった。紙を一丸漉くのに皮楮を16貫目必要とし、上筒賀村は1000貫目以上も楮が余り、他村に売りに出されていた。上筒賀村のなかでも坂原・馬越郷の楮栽培がとくにさかんであったようである。筒賀の紙漉き量は18世紀半ばが最も多かったと推測される。というのは紙漉き人数がこれ以後減少している(「筒賀村史」)。

 「四代目の五郎作が庄屋在職中の照応三年(1654)のころ、発起して当村へ楮苗を槙始め、なお紙漉等をも始めた」。これは「玖島村書出帳」の一節である。玖島で初めてとり入れられたということは佐伯町地域で初めてのこととも見られる(「佐伯町誌」)。

 「加計町史」に大利原・深井家の「芸州山県郡村々諸色覚書」があり、享保12年(1727年)の村別の産物がまとめてある。それによると紙産地は、加計町、筒賀村、戸河内町、千代田町、豊平町、その他となっており、山県郡の紙は3448丸、13040目、楮は34716貫とある。

 広島藩では宝永三年(1706)紙座を設けて専売制による統制策を確立した。すなわち製紙原料の楮は、各村に一定の生産額を割当て置き、原則としてすべて藩で買い上げた。これを御仕入楮という。(広島県史 「近世文書用語用例ノート」HP)

享保12年(1727年)の山県郡の村別 楮・紙生産高
(「加計町史」)
村名 楮(貫) 紙(丸)
穴(加計町) 2200 350
坪野(加計町) 600
津浪(加計町) 1250 140
加計(加計町) 7000 1300
下筒賀(加計町) 1000
下殿河内(加計町) 3200 429
上殿河内(加計町) 2670 300
中筒賀(筒賀村) 1500 270
上筒賀(筒賀村) 2400 80
戸河内(戸河内町) 9150 400
本地・石井谷(千代田町) 148
南方・木次(千代田町) 270
都志見・戸谷(豊平町) 180 150
他に36ヶ村 3148 29
合計 34716 3448
丸:和紙の単位 半紙6締を1丸という。 束を集めて締(しめ)ごとに包装し、1丸(まる)単位に荷造りする。


延宝7年の検地差出帳から
          
(「八幡村史」 単位は反)
 

芸北民俗博物館民俗資料(「八幡村史」から)

種別 名称(数字は員数)
家具24点 板びょうぶ2 たなげ じざいかぎ3 こあまだ 火ばち こたつやぐら たばこ盆 枕箱まくら3 ゴザまくら2 仏だん 錠前 落し錠のかぎ つばめの巣 雪はね(雪なせ)5
燈火用具25点 つりどうだい9 とうだい3 あんどん 手さげあんどん2 ろうそく立て6 ちょうちん2 とうだい用肥松一束
調理用具57点 なべ2 なべしき てつき しゃくし 茶釜5 鉄びん3 土びん2 火吹竹 こしき 手おけ(たご)2 おけ2 すりこぎ(れんぎ) くぎおろし 木鉢 とうふ箱2 石臼 たがね ひきかせ3 しゅもく杵 杵12 臼2 しょうゆ樽 籠4 トチの皮はぎ(へし) わらびぶね2 
飲食用具54点 木地膳4 膳2 わん5 茶わん さら3 りきりょう(木地の飯鉢) 飯ばち3 飯ぞうけ ごはんぶく2 しゃもじ めんこ8 弁当ごうり4 汁さし 酒だる とっくり13 ちょうし1 酒わかし 油つぼ3 茶かすつぼ
服装品54点 つづりでっこう つづりそでなし3 女の式服2 みの(雨具) あみぼうし(防寒具) 笠(陣笠)2 地わらじ4 雪わらじ3 つまご9 長つまご2 さきつまご3 はばき6 雪わ(足具)6 鏡4 鏡台 くし こうがい くし箱 髪油つぼ2 
保健衛生用具9点 こぶく2 薬ろうだんす 薬箱 茶うす やげん 薬なべ 薬粉とうし 薬はかり
その他用具5点 竹うま 手うちかね ひょうし木 竜吐水 火事場用のかま
農具47点 すき6 かま 馬ぐわ えぶり 大足(おうわせ) 苗かご 苗ぶね 田植わく4 田下駄2 千歯 もみた・きつち ほたうす4 とうす2 とうみ3 万石2 み2 もみとうし2 米とうし5 粉米とうし 粉とうし 粟とうし 斗の口 種物入れ
きこり用具11点 こびきのこ 斧3 手ぞま 口ばり2 や 皮へぎ
狩猟用具5点 弓 やり 火なわ銃2 たまをつくる道具
紡織用具60点 おうむしこが おこぎはし おおけ(おぼけ)3 糸まき13 糸車4 糸わく7 たてり へだい2 たてかせ台4 横かせ台3 しゃみせんわく4 地ばた2 高はた おさ3 さい かざり糸 しま帳 麻布 はばきあみ台 みのあみ台 むしろばた 炭だわらあみ台 こうら二連 つち
畜産用具29点 馬のたてがみばさみ くつわ4 おもがた はなぐり 牛つなぎ 牛ぐら2 馬ぐら2 荷ぐら3 牛のくつ9 焼金5
交易用具10点 はかり そろばん 銭箱 すずり2 矢立2 けい紙の版木2 てごり
その他
生産用具10点
ふいご さくりかんな たてびきのこ すみつぼ2 屋根ばり ぶんじ 瓦釘の孔あけ ふしんづな くいうちつち
運搬用具15点 そり 木おいこ とりのす にこう2 いぐり3 ほぼろ4
その他
民家中門造り一棟
建坪 31坪八合
以上479点  


 明治の地租改正で字比尻の地目は、薪山292反、草山65反で樽床組共有地となっている。
 明治45年には、樽床聖山にも放牧場が設けられ、八幡村のみならず、遠く小板、雄鹿原、中野の一部でも放牧のため追い込んだ時代があった。 明治26年の「八幡村貨物輸出入調」では、紙1000束(1束200枚)を道川村から購入しているが、紙の村外への売りはない。紙は明治後期ほとんど和紙(コオゾ紙)で、島根県道川・二川村方面より購入していて、高値でもあったので貴重品として大切に扱っていた。昔の家屋に板戸が多いのは障子にすれば紙を多く要するためである。便所紙は藁、木の葉(ゴドウマキ)、草の葉(イタアドリ)などを乾燥して用いていた。紙の使用は大正末期頃よりである(「八幡村史」)。

おうむし(麻蒸し)こが 麻を刈って葉を落とし、こがで蒸して皮をへぐ。この蒸しこがは、四国から技術が伝わった。高さ2m近い長く大きい桶で、大きなくどで大釜に湯を沸かし、麻を入れたこがをかけて蒸す。なにぶん蒸しこがは大きいので、つるべ仕掛けで動かした。
こうぞ(楮)こが 高さ1.7m、口径1m余、厚さ1.7cmの杉板を大きい竹のたがで3か所締めてある。楮は、畑のあぜなどで作られ、草刈りのとき残して育てたもの、根元から切り取り、こがで蒸し、皮をへいだ(「戸河内町史」)。

 芸北民俗博物館にある水没した樽床集落の生産用具の中で、紙に関係するものに「おおむしこが」(蒸)がある(「八幡村史」)。むしこがは麻や楮を蒸す道具なので、楮を蒸して皮剥ぎ(しじり)の作業をしていたのかもしれない。山県郡の1727年の楮の生産高は昭和5年(1930年)の1.8倍であり、山県郡での造紙や楮の生産の歴史は明治以前はもっと盛んだったことが分かる。

 「しじり」工程の呼び名は中国山地の西から東へ「そぶり(大竹) そぼり(佐伯町) そそり(多田村) そぞり(石見) しじり(八雲村) そじり(広瀬) へぐり(津山) しじり(勝田)」へと変化している。山県郡に和紙製造所が100近くもあったことから、広島県の山間に「しじり」工程があったことは間違いないだろう。


 中国山地沿いの紙≠含む地名に以下がある。
 紙祖(島根県匹見町)紙屋(広島県三次市)紙谷(広島県口和町)紙屋谷(帝釈峡東)紙屋(岡山県新見市、久世町)。
 中国山地での楮や三椏の生産、紙漉の歴史とともに紙≠含む地名が残っていると思われる。

 楮は紙麻(かみそ)→かみぞ→こうぞに変化したという。島根県では楮をソ∞マソ∞ヤマコーゾ≠ネどと呼んでいる。石州和紙の発祥は匹見町紙祖と言うから、紙祖≠ヘ楮を意味しているのかもしれない。山口県本郷村の楮祖(ちょそ)神社は日本で唯一、和紙の原料である楮(こうぞ)の神様を祀っている神社という。
 カシミールでは紙漉≠含む地名は紙漉、紙漉川、紙漉沢など中国と北海道を除いて全国にある。楮∞三又≠ネど紙に由来する地名は全国に多い。


 「新開地詰帳に目を通すとき、延宝7年(1679)には木束原が開かれ、享保14年(1729)には東八幡原村の二川、皆水、西八幡原村の長者原が開かれ、また天保4年(1834)には東八幡原村の大林、東樽床の茅ガ原、吉ガ瀬、城山の四か所の荒地を起して一町七反五畝十七歩の耕地を得ている。その他にも帳付されていないが、切添え形式によって人目にかかりにくい林のかげ、谷間の奥などにもすこしずつ開墾していたようである」(「八幡村史」)。

 延宝7年の検地差出帳では「樽床ノ」10人の耕作者の内、しじり谷の宇兵衛の田畑が一番広い。「樽床ノ」他の耕作者と比べて倍以上の面積で、畑は4反、4000平米ほどである。しじり谷の奥まで開墾したのだろうか。8人の大家族だからより広い開墾が可能だったのかもしれない。

 比尻山の北、シジリ谷の水源部に「畝畑」や「田形」がある。高所まで田や畑があったようだ。「西中国山地」で「畝畑」という地名はここだけである。和歌山県の山間に「畝畑」(ウネバタ)があり、明治24年に54戸273名が、昭和59年には2戸5名に激減していて、八幡村と似たような山村である。楮は田の畦や畑の岸で栽培しているが、シジリ谷の「畝畑」や「田形」で楮を栽培し、谷で皮を洗い流していたのかもしれない。樽床の周辺でコウゾを生産し、「しじり」の作業が行われ、周辺に多いノリウツギをネリにして紙漉も行われていた時代があった可能性がある。

 本来の意味の皮剥ぎとしてのしじり≠ヘ、年月とともに地名に変化し、言い回しのみやすいひじり≠ニ呼ぶようになったのかもしれない。しじり≠ヘひじり∞比尻∞聖≠ヨと変遷し、その背後にある意味は失われてしまったが、コウゾしじりや紙漉の歴史がかつてこの地にあったのではないだろうか。

「谷の呼称であった比尻はいつの間にか、山名としても用いられるようになり、明治・大正・昭和と長い間比尻山の字が使用されていた。樽床に住んでいた古老数名より、水没前の樽床の様子や地名の聞き書きをしたが、聖山は比尻山と書くのが正しいと幾人もの人から指摘された。比尻山→聖山への改字は一般の村民のあずかり知らない所でなされたという感を深くした。昭和45年に刊行された『樽床誌』には、国土地理院の地図に聖山の字が使用されているにもかかわらず、あえて比尻山の字が統一使用されている。水没した故郷の歴史を記録する場合、誰がつけたかわからない、なじみの薄い聖山という字を使用する気に、なれなかったのかも知れない。一つの山、一つの谷の名は、そこに住む人達の生活の歴史が刻まれており、第三者が勝手に変えることのできない程重いものである」(「西中国山地」)。