6:35出発 晴 気温16度
7:35三段滝
8:40猿飛
9:20横川出会
10:50イキイシ谷
12:00三角点(奥三段峡)
12:30笹小屋
13:20比尻山(聖山)
14:00十文字キビレ
14:50樽床ダム
16:00餅ノ木
アケボノソウ |
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餅ノ木口 |
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餅ノ木の石柱
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餅ノ木集落の広場から谷へ降り、モチノキ谷と狼岩山から落ちるナメラ谷の下流に架かる木の橋を渡ると「ツキノワグマ生息地」の看板がある。少し下って八幡川に出る手前に、昭和7年に建てられた「特別名勝三段峡」の石碑がある。それによると大正14年、史蹟名勝天然記念物に指定された。
三段峡奥の八幡川を下った。葭ケ原から樽床ダムまでを八幡川渓谷という。遊歩道が右岸に続いている。遊歩道は最近草刈をしたようだ。トチの実がたくさん落ちている。クリも落ちている。遊歩道まで流木が上がっている。14号台風で大分、増水したようだ。植物採集禁止の立札がある。
餅ノ木口から1時間ほどで三段滝。三段滝は峡谷中最大の滝で、展望所の説明板によると、上流へ後退しているという。観光放流しているとは言うものの、パンフレットと比較すると明らかに水量が少ない。ダムがない時代はもっと迫力があったに違いない。三段滝を過ぎると、流れは90度曲がり葭ケ原へ向かう。
槙が瀬を過ぎてまもなく葭ケ原、猿飛分岐。猿飛へ遊歩道を上がる。10分ほどで横川川へ出た。少し進むと人家の跡のような石垣が残っている。ナツツバキ、コナラ、ミズナラなどの立札が続く。ところどころ台風で谷が崩れ、遊歩道を埋めている。ほどなく猿飛到着。
トチの実 |
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説明板によると、猿飛は奥にある二段滝の落ち口だったという。二段滝が後退して猿飛を掘り下げた。渡船場へ降りたが、ここからでは猿飛が見渡せない。対岸へ渡った。膝下ほどの深さで水は冷たくなかった。猿飛の右岸、左岸の幅は3mしかない。横川断層が通る猿飛は岩石が粉砕された断層破砕帯が侵食されてできた小渓谷。台風の影響だろうか、渡しの船は高台に固定されていた。
戻って遊歩道を登り、下りに差し掛かると二段滝へ降りる踏み跡がある。釣り人が使っているのだろうか。二段滝上部へ降りた。二段滝は横川断層の断層崖にかかる滝。
二段滝は昭和63年7月の豪雨で、上段の滝が壊れ、現在一段になっている。船で渡って二段滝を観賞する対岸は大きく谷が崩れている。しばらく二段滝上部を歩き、へつりのできないところで遊歩道へ上がった。こちらも谷が崩れ、遊歩道を塞いでいる。ほどなく横川川と田代川の合流点、横川出会に到着、少し休憩した。餅ノ木から3時間弱。
マツムシソウ |
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三段峡に関する古い記録が幾つかある。
1715年 「戸河内森原家手鑑帳」
1768年 画文集「松落葉集」
加計の佐々木右衛門正封は、奥山のタタラの経営より得た豊富な情報をもとに、峡内の奇勝を紹介。
1819「国郡志御用に付下しらべ書出帳・戸河内村」。土地の在住者がくわしく峡谷について記す。
1825年 「芸藩通志」戸河内村絵図
1918年 「山県郡写真帖」発行。大島写真館技師、熊勝一(南峰)。
1922年7月 芸備日日新聞に22回連載、「戸河内秘境探検記」。
三段峡の呼称を考えたのは熊南峰である。「松落葉集」は山県郡の景観について、十方山、苅尾山、深入山を三峨。田代川、小板川、柴木川を三峡。三ツ滝、三段滝、二段滝の三滝としている。「三峨、三段、三峡」の三語より一字ずつ抜いて三段峡と考えついた。
1923年11月、熊南峰が撮った内務省一行の記念写真が、広島県文化財ニュースに紹介され、三段峡≠フ名称がこの時決められた(「西中国山地」桑原良敏)。
タンナトリカブト |
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横川出会に昭和7年に立てた文部省の境界標がある。赤い鉄の田代出会橋を渡って林道へ出た。橋から見る田代川は大岩が転がる渓谷である。林道が出来るまでは、ここから奥三段峡が始まっていた。田代出会橋は1990年2月に竣工している。ここにも「ツキノワグマ生息地」の看板がある。こちらの三段峡入口には通行止めの札が立ててある。
田代川に沿う林道を進んだ。古い石の楓橋を渡った。日当たりにシマヘビが出ていた。大規模林道の田代橋の下を過ぎると石垣が現れる。この辺りから田代集落が始まる。林道の左下に壊れた小屋が残っていた。作業小屋のようだ。牛小屋谷へ抜ける田代橋を過ぎて、進入禁止の柵を越えて林道終点のイキイシ谷へ到着。
「戸河内町大字横川にはかつて84戸の人家があった。1970年には餅ノ木に1戸、下横川に2戸、古屋敷に3戸の6戸だけとなり、田代・二軒小屋の集落は廃屋となった」(「広島の地質をめぐって」)。
コナラ |
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奥三段峡三角点 |
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イキイシ谷落ち口でしばらく休憩。ヤマボウシの赤い実は桃の味がした。イキイシ谷を渡ると道は奥三段峡へ分岐する。踏み跡を登った。道はしっかりしているので迷うことはない。スギの植林帯はいつのまにか、ヒノキに変わっていた。葉の付いたコナラの実や、タムシバの赤い実が落ちている。しばらく登って大岩を越えて、左の谷を見ると石積が残っていた。そこから少し上がると東へトラバース径が開かれていた。イキイシ谷へ下りる径だろうか、東へピンクのテープが続いている。50分ほどで956標高、石の境界石があった。そこから10分ほどで三角点のある965標高。点名は「奥三段峡」。所在地は戸河内中ノ甲279。
道は三角点から北へ下っている。しばらく下って余り下りすぎるので、少し戻って尾根を笹小屋方向へトラバースした。100mほど進むと道に出た。この道と下った道が下でつながっているようだ。しばらく登って中ノ甲林道の笹小屋へ出た。
点の記を確認してみると、笹小屋から三角点への道順は尾根沿いに進むようになっている。三角点の西側のササの中に踏み跡があったので、おそらくその径が笹小屋へ抜ける道だろう。いずれにしても同じ道に出ると思われる。
笹小屋 |
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笹小屋に広島森林管理署の「危険 クマに注意」の大きな看板がある。中ノ甲方面へ少し下ると、奥三段峡へ落ちる出会谷の源流部へ出る。植林帯の中へ水量の少ない出会谷が上がっている。出合谷を登ろうと思っていたのだが、笹小屋から尾根沿いにテープが続いていたので、そちらを登ることにした。
ピンクのテープは入口からしばらくしてなくなり、踏み跡も消えていた。スギ、ヒノキの樹林帯なのでブッシュはなく、尾根筋を適当に登って行く。大岩を過ぎて100mほどササを漕ぐと三角点のある山頂へ出た。笹小屋から50分ほどだった。昔は展望の良い山だったようだが、今は林で展望はない。西へ回ると僅かに、天杉山だろうか、頭を出している。比尻山は氷河の影響を受けた地形という。
「西中国山地でも聖山(比尻山)と深入山で1965年に周氷河地形が発見された…聖山山頂の平坦地にある角礫は大きい。現在は雑草が生えているが、この山に初めて登った昭和19年の夏は、無毛の赤土の平坦地の一部だけ礫岩が散在しているという異常な光景であった」(「西中国山地」)。
周氷河地形とは、昼と夜の温度差によって土壌中の水分が凍結と融解を繰り返した結果によってできる特徴的な地形の総称。これは氷河による地形ではなく、氷河が存在した周辺の寒冷地域に見られるものという。久井の岩海も周氷河地形という。
山頂西に角礫が転がっているが、それが周氷河地形の名残りなのか分からない。
ヒメキマダラヒカゲ |
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数分下ると道は高岳へ分岐する。十文字キビレへ下った。少し下ると展望岩があるが、ここも林で展望はない。40分ほどで峠へ下った。十文字キビレは四叉路になっている。南側へ中ノ甲、イキイシ谷、通ったことはないが、おそらく餅ノ木へ下る道がある。イキイシ谷、餅ノ木へは鎖止めがしてある。昔は樽床峠と言ったようだ。
登山口道標 |
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樽床へ下った。道は荒れているが、オフロード車なら台所原まで行けるだろう。下り道は林で展望が利かない。聖山登山口の道標は山頂まで1113mになっている。離郷者望郷之碑、民俗博物館を通って、1時間ほどで昭和32年竣工の樽床ダムに到着。樽床ダムから高岳や狼岩山は見えるが、比尻山はみえない。
八幡川へ降りた。右岸の降り口に昭和7年の石柱がある。餅ノ木口、横川出合にもあったので、文部省が昭和7年に三段峡の要所に名勝の石柱を建てたようだ。下るとすぐに三ツ滝。その先はダムだから、ダムが出来る前は急峻な渓谷が八幡へ続いていたに違いない。
ヤマナシの実がたくさん落ちている。右岸、狼岩山から落ちる貴船滝を過ぎると竜門。岩盤を貫く流水の浸食力の大きさを示している。
鉄の竜門橋を通って左岸へ渡る。右岸に繰糸滝の細い水流が見える。その先の谷に古い橋げたが落ちていた。霧が瀬のコンクリートの橋を渡ると小板川から落ちる出合滝。出合滝は餅ノ木断層の断層崖にできた滝。この先は餅ノ木まで緩やかな流れが続く。出口付近に水が引いてある。冷たくて美味かった。餅ノ木集落の水田では稲刈りが大分進んでいた。
終点 餅ノ木 |
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ヤマハッカ |
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メドウセージ |
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キバナアキギリ |
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カシミールデータ
総沿面距離17.0km
標高差586m
ツルニンジン |
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区間沿面距離
餅ノ木
↓ 5.2km
横川出会
↓ 2.7km
イキイシ谷
↓ 2.0km
笹小屋
↓ 0.9km
比尻山
↓ 1.1km
十文字キビレ
↓ 1.9km
樽床ダム
↓ 3.2km
餅ノ木
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