6:10出発 晴れ 気温6度
坂根集落の郵便ポスト
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9:50藤十郎
10:25中三ツ倉
10:35奥三ツ倉
10:55十方山
坂根橋 |
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エビネ |
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戸河内の民話に「光る石」(打梨)がある。昔、押ヶ峠(おしがとう)の集落が谷底にあったころの話で、相当古い民話と思われる。押ヶ峠断層の露岩から、いろいろな鉱石が出たようだ。また約400年くらい以前に建てられたという打梨の宝篋印塔(うつなしのほうきょういんとう)が残っている。押ヶ垰や坂根、打梨の集落は古い歴史があるのだろう。
コケイラン |
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サルメンエビネ |
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那須への分岐を過ぎると坂根集落に入る。涸れた太田川に大岩がゴロゴロしている。橋の付近で坂根集落を眺めていると、杖を突いたお婆さんが上から降りてきた。「毎日散歩しているのじゃ、91になります」と話しかけてきた。空き地へ車を置いて良いかと尋ねると「おきんさい」と言って、軽い足取りで県道を那須の方へ歩いて行った。郵便ポストは打梨になっている。少し上の林道入口で、91歳と比べればずっと若いお婆さんが焚き火をしていた。少し話しかけたが耳が遠いようだった。林道を上がるとヒノキ林に石垣がある。昔の田んぼの跡だろう。林道から見下ろした坂根集落が朝陽に照らされていた。林道の上部にある民家は廃屋のようだ。坂根谷の入口は立派な砂防堤が築かれていた。昭和48年3月竣工の坂根橋を渡ると、林道打梨線の看板がある。林道は昭和62年の整備事業で作ったようなので、坂根橋が大分先に作られている。坂根集落は太田川沿いから坂根谷にかけて散在している。看板の右手に踏み跡がある。スギ林を抜けるとツリンボウノ谷へ出た。
ユキザサ |
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ツリンボウというのは変わった地名だが、「西中国山地」の地名考に出てこない。「西中国山地」の地名を見ると、キリンボウ(嶽)がある。リンボウに何か意味があるのだろうか。ボウで探してみると、イヌボウ谷(春日山)、タテボウ(香仙原)があるが、読み取れない。藤十郎はありそうで案外ない。カシミールの地名検索では山形、新潟、富山、福島の全国四県だけだ。那須の木地師に由来があるのかもしれない。ウラオレは理解に苦しむ。似たような地名にオレイシ谷(莇ヶ岳)、ナバオレガケ(柏原山)があるくらいだ。
サワガニの死骸 |
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ツリンボウの谷は小さな谷だ。黒いホースが何本も引いてある。坂根集落の水はここから引いているようだ。少し登ると、右岸に踏み跡があった。林道の、もう少し上から道が通っているようだ。ピンクのテープが点々とある。境界測量のあとだろう。右手に太い竹の林があった。道は押ヶ垰断層線に沿って、右へゆるくカープしている。断層鞍部のケルンコルはこの辺りに位置する。道に沿ってスギ林の中に段々の石垣が現れた。こんな山深くまで水田があったようだ。道はスギ林までで、そこから谷径になる。狭い谷に潅木が覆っているところもあるが、登るに連れて歩き易い谷径になる。7、8mの滝は右岸を巻いた。谷沿いはサワグルミが多い。サワガニの死骸があった。サワガニの痕跡をみるのは久しぶりだ。太い倒木の間から濃茶の鳥が目の前を飛び去った。細くて急な谷なので、高い滝になると巻けないところが数ヶ所ある。なんとか乗り越した。サンショウが多い。枝を持つと香りが広がる。
5.2mミズナラ ツリンボウ上部 |
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スイバ
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スイバ雄花 |
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コチャルメルソウが根こそぎ折れてアチコチに散らばっている。ミヤマカンスゲの食痕があった。ノウサギにしては荒々しい食べ方だ。クマかもしれない。やっと水源部に出て少し登ると、周囲5.2mミズナラの二股の大木があった。下は空洞でクマが冬眠に使えそうだ。ミズナラの横の樹林の間から集落が見えた。急坂が続く。トチ、ミズナラの大木が多い。ユキザサがいっせいに花を咲かせている。ウリハダカエデも花を付けている。やっとなだらかになったと思ったら、藤十郎まで200mほどの稜線に出ていた。ツリンボウは小さな谷だが、稜線まで急坂が続く。稜線にブナの大木が倒れていた。
ミツバツチグリ
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オクノカンスゲ |
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ミズナラの大木がある藤十郎にやっと到着。坂根から4時間弱かかった。少し休憩して、ミズナラを計ってみると3.8m。登山道の少し先に3.7mブナがある。片側は枝が折れて少し痛んでいる。ブナ街道を通って大岩の中三ツ倉へ出た。カンスゲがいっせいに穂を付けている。シジュウカラが目の前を、枝から枝へ通り過ぎて行った。10分ほどで奥三ツ倉、さらに20分で十方山。今日の十方山はいつもの霞がなく、クッキリとした眺めだった。山頂には二組4人の登山者。それぞれ昼食中。男性の単独者は最近登山を始め、今日が5回目で十方は初めてとのこと。昨年の台風で飛ばされた山頂の道標は、新しく取り付けられていた。
ニシキマイマイ?
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オニグルミの雌花 |
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14:45県道
15:15立岩ダム
16:15坂根
写真を撮って早々に下山した。論所まで戻り、掘割の間の谷を降りた。狭い水路のような谷は下るに連れて広くなる。倒木の上に壊れたカタツムリの殻があった。ニシキマイマイのようだ。十方山や恐羅漢山でこの殻を良く見る。探して見つけるわけでないので、相当多いのでないか。この谷径は倒木が多少あるが歩き易い、急な谷が長く続く。下るに連れて、鬱蒼としたサワグルミやトチの大木の樹林になる。大きな滝はなく、水に入ることもない。サワグルミの樹林の中に、オニグルミがあった。瀬戸滝の入口にオニグルミがあるが、点々と生えているようだ。何本かあったので、大谷川はオニグルミが多い方かもしれない。
トチノキの標識
王2林班とある |
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ハウチワカエデ |
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倒れた家屋 |
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半分ほど下った辺りで、両崖が狭まり、右岸に滝が現れる。この辺りが大谷川の核心部のようだ。核心部手前のトチの大木に「(王)2林班」と標識が取り付けてある。このあたりは王子製紙の持山なのだろう。右岸の滝はヒキジノオカ東のコスギナエノ谷から落ちている。しばらく下ると巨岩がある。左岸に所々踏み跡が残っている。左谷分岐に下ると右岸に大岩がある。イシノ小屋という。トンネル状になっていて雨露をしのげる。そのトンネルを通って下った。この辺りから左岸に明確な踏み跡が現れる。左岸の踏み跡を降りた。径は谷へ降りる。広島営林署の看板が落ちていた。この辺りは下山国有林という。下山というのは立岩周辺の大字名だ。径は右岸へ渡りスギ林を通って県道へ出る。スギ林の中に倒壊した家屋が残っていた。立岩集落の跡だろう。十方山から3時間で県道へ抜けた。
「大谷川(オオダニゴウ)は、谷と呼ばれるほどのものもなく、危険な箇所もないので十方山の登降路として十分使える」(「西中国山地」桑原良敏)。大谷川よりツリンボウの谷の方が難しい谷だろう。
タチカメバソウ |
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県道を坂根へ向かった。大谷川を少し登ると左手に壊れた神社が残っている。上がってみると、石段手前の木製の鳥居が倒れ、神社は荒れていた。このままでは倒壊するだろう。下山の神社だろう。30分で立岩ダム。ダムから押ヶ垰断層に沿って押ヶ垰集落と669標高のケルンバットが見える。この断層は瀬戸内海形成の重要な遺物だという(説明板)。車に轢かれたヘビがじっとしていた。押ヶ垰集落の墓所に花々が咲き乱れていた。林間の太田川の対岸に清水集落(セイズイ)が見えた。二つ目のトンネルの手前に断層の露頭を見ることができる。三つ目のトンネルを過ぎたところから見た大田川は水溜りのようになっている。昔、下山からイカダが下り、戸河内を抜けていたのが嘘のようである。
打梨小学校跡
の石碑 |
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やっと坂根集落へ戻った。坂根の打梨小学校跡へ寄ってみた。古い校舎が残っている。石碑を見ると、昭和46年戸河内小学校に統合、入口の門柱には大正12年とある。半世紀の間、小学校があったようだ。
車を止めた民家に人が集まっている。駐車のお礼を言った。法事の寄り合いとのこと。ご主人のS氏(61歳)にツリンボウの由来について尋ねたが、昔からツリンボウと呼び、特に意味はないという。ツリンボウ周辺のスギやタケは持山とのこと。ツリンボウの先のイデガサコによく行ったことがあると。この辺りの集落には、基礎が一段高い家がある。武士の出の名残りという。坂根に3軒、押ヶ垰、清水にそれぞれ1軒残っている。今日は坂根の全住人にお会いできたのかもしれない。最近、集落前の太田川にマットレスを持ち込んで大岩を登る人が多いそうだ。ボルダリングのようだ。帰りに取り立てのチシャのお土産までいただいた。
カシミールデータ
総沿面距離12.5km
標高差906m
ウスバシロチョウ |
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坂根谷上部の民家 |
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区間沿面距離
坂根集落
↓ 3.1km
藤十郎
↓ 0.8km
中三ツ倉
↓ 0.7km
奥三ツ倉
↓ 0.8km
十方山
↓ 0.4km
論所
↓ 3.0km
大谷川入口
↓ 0.8km
立岩ダム
↓ 2.9km
坂根集落
「ツリンボウ」考
ニシキゴロモ
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加計・戸河内・筒賀の太田川流域三町村では、昭和57年から「祇園坊柿の里づくり」を進めており、現在では108農家で約35トンの柿が出荷されるまでになっている(JA広島)。祇園坊柿の名の由来は、柿のカタチがこれを広めた佐東部の祇園社(現在の安神社)の僧の丸い頭に似ていたからという。
祇園坊の起源は、1600年ごろ甲州蜂屋柿の苗木を広島に移植したのが始まりといわれる。祇園坊柿は太田川上流で、昔から栽培されていた柿で、渋柿なので、干し柿にしたり、あわせ柿(渋抜き)にして食べる。明治の時代に優良品種として、広島県の「祇園坊」が全国に紹介され、普及した。戸河内の民話「耶源の岩のり(柴木)」のなかで、猿に柿を与える話があるので、柿の栽培は古くからあったと思われる。
滋賀県では、干し柿のことを「つりんぼ」「つうりんぼ」「つーりんぼ」という。家の軒先に柿を吊るして干し柿をつくることから「つるもの、つるされるもの」といった意味が転じて、干し柿のことを親しみを込めた呼び名となったようだ。
坂根から4kmほどの戸河内の田吹に、木地の綸旨(りんし)が残っている。綸旨というのは営業許可証のようなものだが、この綸旨には筒井公文書の印があり、滋賀県永源寺蛭谷系と思われる。文徳天皇第一皇子惟喬親王(清和天皇御兄君)の家来大政大臣小椋實秀の子孫で朝廷の保護に支えられ、木地加工を行って来たと伝承があり、戸河内の木地師も本書により、これに関連したことが裏付けられる(「戸河内の文化財をたずねて」)。
ツリンボウの谷は現在スギ林だが、昔は谷沿いに田んぼがあった。ケルンコルの緩やかな平地があり、柿を吊るした家があったのかもしれない。木地の里、那須集落からトリゴエ谷、鳥越キビレ、イデガサコの鞍部を通ってツリンボウ、坂根へ抜ける道があったようだ(日ノ峡三角点、点の記)。周辺の木地師に関係する地名として、キジヤ谷(サバノ頭西側)、キジヤ原(セト谷)、ロクロ谷・ノブスマ谷(細見谷)などがある。坂根の周辺は木地師の出入りが多かったところだが、滋賀県からやってきた木地師が、家に吊るされた柿を見て、「ツリンボ」と呼んでいたのかもしれない。
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その後、那須、坂根、押ヶ垰、清水を歩いたが、いずれもカキノキが植えられており、干し柿にしていて、祇園坊も昔から栽培していると、地の人から聞いた。
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